小三治の稽古と趣味ー郡山和世『噺家カミサン繁盛記』より(4)
2021年 10月 15日

郡山和世『噺家カミサン繁盛記』
小三治の奥様、郡山和世さんの本『噺家カミサン繁盛記』は、単行本が1990年発行、文庫が1999年発行で、私は両方所有。
表題の章から、最終の四回目。
今回は小三治の趣味、というより、著者和世さんの趣味と小三治との関わりあい、と言えるかな。
二つ目三人と私とで麻雀をすることがある。
何カ月に一度のお手合わせだが、全くひどい。四人共、ほとんど点数計算が出来ない。
私はものごころついた時から、麻雀、花札は、お手玉やカルタよりやる機会が多かった。
私の父親は開業医だったが、極くヒマで、かといって外出するわけにもゆかず、母と私と弟を誘い毎日御開帳。その合い間に診察。
ところが私、勝負ごとは好きだが執着心てものがない。おまけに算数は大の苦手。いつもヒトに計算してもらって済ましていたものだから、ついに今もって分からない。
結婚前、小三治がそもそも私の家に入り浸りになったのも、覚えたての麻雀がしたいばっかりにこの家族麻雀にもぐり込んだためだった。
私は例によって良く分からないから、小三治が十三面待ち、もちろんダマテンで息をひそめている時、彼の振ったパイに、
「ドカーァン! 当たり~ィ! 東のみィ}とやったのをシツコク恨んだ。それ以来、私を仲間に入れてくれなくなったんだ。
もっとも、その時の小三治もまだ覚えたてだから、自分が上がって、
「メン、タン、ピン、ドラ、ドラ・・・・・・」
などと指追っているうちに、父や弟に、
「ザンキュウ、ザンキュウ」(ガラガラガラ)とやられ、青スジたてて悔しがった。
「全く、あなた(私のこと)の家は、山賊みたいな家族だ!」
と言ってたものだ。
麻雀をする人は、小三治の十三面待ちを、東のみで蹴った人物への恨みが、よく分かるだろう^^
和世さんの実家が医者ではあったが、決して、ご令嬢ではなかったことが、うかがえる。
患者が来るまで、家族麻雀をしている医者の家ってぇのは、そう多くあるまい。
さて、私と三人の二つ目。
最初は機嫌良く卓を囲むのだが、私の振ったパイが彼等の誰かに当たると、三人で顔を見合わせ、
「あのォ~、それ当たったんですが、よろしいでしょうか?
「エッ? 当たったの?」
私がよっぽどスゴい顔をするのか、
「アッ、いいんですけど・・・・・・」
「はん治! 俺もうツモっちゃったから」
「アッ、そうですね、いいです・・・・・・」
私はムカムカしてくる。
「当たったんならしょうがないでしょ。へんな気遣わないでョ」
「そうですか。ハネマンなんですけど・・・・・・」(ガーン)
「わかったわョ。はっきり言ってよ。バカにされてるみたいじゃない」
「ハ、ハイ!」
又、私が振り込む。
「当たり!!」
そんなにデカい声出さなくても良いでしょ、心の底から私をバカにしてるんじゃないの?
どうせみんな点数もロクに計算できないからいいかげんなとこで手を打っちゃう。
そんな所へ小三治が帰ってくると、
「なにやってやがンだよ、全く。まだてめェら数えらんないのか? ホラ! 〆治、数えてみろ!」
などとお勉強が始まってしまう。
お蔭で彼等も大分計算ができるようになったらしい。
私は相変わらず数えられない。
この頃私は仲間入りしない。彼等の方が私を相手にするほどノンキな麻雀じゃなくなったから。
そのかわり新二つ目の福治(つむ治)に私の席を譲った。
彼はとっくの昔から点数計算ができる。
いいんだ。私にはファミコン麻雀がある。あれはチャンと計算してくれるもん!
単行本の発行は、1990年。
三十年余り前。
本書発行のきっかけを、単行本の「あとがき」から紹介したい。
弟子と言う名のエイリアンが、我が家に棲みついてからというもの、亭主小三治が帰宅するのを待ちかまえては、
「もう我慢できないからネ! あんなヤツ等の面倒なんぞ、金輪際見ないからネ。だってね、今日なんか、これこれこうでサ、ああしてこうして、こうなっちまったんだから・・・・・・」
息もつかずに、まくし立てる私のグチと罵倒に、亭主はすっかりイヤ気がさして、
「勘弁してくれヨ、おまえネェ、そういうこと何かに書いといたら? いつか、なんかの役に立つかもしれねェからョ」
で、悔し紛れに書き出して、溜りに溜っていたものを、ドッとばかりに吐き出した。
今から四、五年前のことだ。
だから、最初は弟子と、ついでに亭主を罵る文ばかりが、ノートやメモ帳を埋め尽くし、私の欲求不満のハケグチになっていた。
そんな頃、小三治の取材で、久し振りに来宅された、フリーライターの関容子さん。
彼女とは、私達がまだ結婚したての頃、やはり取材でお目に掛かったのが縁で、時々、話し相手になっていただいたり、時には薄っぺらい尻を叩いてもらったりのおつき合い。
「あなた、いつまでも『小三治のカミサン』でもないでしょ。そろそろ何か始めたら?」
「ウーン、私もネ、少しは考えちゃいるんだけど、余りにもブランクが長すぎて、何をやったらいいんだか分からないのヨ。染色の仕事をやろうったって、頭ン中がカンカチコンになっちまって、白い紙に向ってみても、何のデザインも浮かんでこないンだから・・・・・・。
そう言えば、全然関係ないけど、このごろこんなことやってるの・・・・・・」
と、書き溜めていたものをお見せした。
「面白いじゃない。これ何とかしようヨ」
と言って、某社編集部に持ち込んで下さった。が、某社某氏は、
「面白いンですけど、ちょっと息苦しくなっちゃうンですヨネ。何しろ、お弟子さんの悪口ばかりでしょ。もう少し、心温まるような話が欲しいンですけど・・・・・・。又、そこいらへんをお書きになったら見せて下さい・・・・・・」
ま、早い話が「没」。
私ァ、お涙頂戴モノは性に合わないし、書きたくもないネ。第一、コトのハジマリが、「弟子イビリ」だったのだから、今さら急に、世に出るための宗旨替えなんぞ、私の良心が、許さない。
と、おためごかしの理屈をつけて、「本にする」などといゆ大それ話にゃ、「やっぱり無理だ」と諦め境地。関さんからは、頑張れコールを再三いただいたが、それっきりほっぽり出していた。
そんな折、一時期役者だった頃に、我が家で小沢昭一さんからの預かり弟子として、噺家修業していたことのある内田君が、今度月刊「文藝春秋」の記者として、小三治の取材でやってきた。取材後、よもやま話をしているうちに、ヒョンなことから例の「書き溜め」の話をすると、見せて欲しいと言う。
彼特有のお世辞だったのだろうが、私ァ、それとも気づかず、調子にのって見せてしまった。
「これ、お借りしてっても良いですか?」
「どうぞ。でも、息苦しくなっちゃうヨ」
二、三日後、彼からデンワがあって、
「ウチの編集部に見せたら、ぜひウチでやりたいと言ってるンですけど。ダメですか?」
「ほんと? でも、心温まる話は書けないヨ。このまンまで良いんなら・・・・・・」
えェえェ、このまンまで良いンです。ただ、あと百五十枚、二ヵ月で、何でも良いですからお書きいただきたいンです」
和世さんは、必死に二ヵ月で百五十枚を書き、内田君に送った。
しかし、陽の目を見るまでには時間がかかった。
原稿を渡してから二年半後の1990年に、「週刊文春」に連載され、同年11月に単行本として発行されたのである。
「あとがき」は、こう結ばれている。
私にきっかけをつくって下さった関容子さん。週刊文春の花田編集長。単行本編集の大口さん。そして、元小三治の弟子だったばかりに、私にかかわっちまった内田さん。ほんとにほんとに、ありがとうございました。
そうそう、忘れてはならぬ。私にネタを提供してきれたお弟子サマ方、ありがと・・・・・・いいかげんにしなさいヨ!
実は、拙ブログが、まだFC2の頃、本書に弟子の一人として登場し、その後落語家を目指すことを断念された方から、鍵コメで連絡をいただいた。
exciteに引っ越すと、FC2では鍵コメだった内容も全部公開されてしまうので、涙をのんで、削除した。
たぶん、本書の続編は不可能かなぁ、と思っていたが、いや、弟子も元弟子も、和世さんの本で恥をさらけ出されても、そこは落語家、誰も反対しませんよ、とコメントをいただいた記憶がある。
このシリーズの記事へのコメントで、和世さんの近況への問合せもいただいたが、私は知らない。
しかし、間違いなく言えることは、和世さんあっての小三治だったのだ、ということ。
ということで、このシリーズはお開きといたします。
噺家のお内儀さん、人それぞれですね。
亭主の方針に従う方もいれば、あくまでご自分の哲学(?)によって弟子に対処した方もいらっしゃいます。
『噺家カミサン繁盛記』には、和世さんと扇橋、さん喬のお内儀さんの三人が旅行した時の話などもあります。拙ブログでも記事にしました。なかなか、楽しいのですよ、その様子が。
五代目小さんのお内儀さんは、あれだけの弟子たちのお母さんだったわけで、生半可なことでは対処できないでしょうから、自ずと強くなるでしょうね。
五代目柳朝は、その見た目や高座とはうって変わった指導方針に驚きます。
しかし、晩年が、なんとも切ない。
小三治のことから、いろんな噺家さんやお内儀さんのことに、思いが至ります。
