青山透子著『日航123便墜落 疑惑のはじまりー天空の星たちへー』(河出文庫)より(3)
2021年 08月 20日

青山透子著『日航123便墜落 疑惑のはじまりー天空の星たちへー』
7月に発行された、青山透子さんの第一作の文庫版『日航123便墜落 疑惑のはじまりー天空の星たちへー』から三回目。
本書は、最初マガジンランドから2010年に『天空の星たちへー日航123便 あの日の記憶』として発行され、2018年に河出書房新社から復刻版が単行本として発行されていた。
引き続き「第二部 エマージェンシー 墜落か不時着か」から。
1985年8月12日、青山さんは、翌日(青山さんの誕生日)からの国際線乗務に備え寮にいて、食堂で夕食をとろうとしていた矢先、テレビで、日航123便がレーダーから消えた、というニュース速報に接した。
「臨時ニュースを申し上げます・・・・・・」
食堂にいる全員がテレビも前で釘付けとなった。
真っ青な顔で寮母さんが大声で叫びながら食堂に飛び込んで来た。
「テレビ! テレビ!」
バタバタと走る足音。叫び声が廊下から聞こえる。
この日寮にいた人たちが皆、続々と食堂に集まってくる。ひとりではいられない・・・・・・。
寮母さんがいつもは使用していない応接室の鍵を開けて、もうひとつの大きなテレビをつけた。NHKも民放も次々と速報のテロップが出ている。
自分たちが毎日乗務している会社の飛行機だという現実がまだ受け入れられない。
123便? どこのグループ? 誰が乗務?
まだ何も分からない。誰かが部屋に戻り、スケジューラーに電話する。
通じない。会社内はどこも混乱しているらしい。
不時着? 墜落? 本当にうちの飛行機なのか?
どのチャンネルを回して見ても、速報の文字が同じ文言を伝えている。
こわばった顔の画面から出てくる言葉は「レーダーが消えた」ということだけだった。
あの夜のことは、結構、よく覚えている。
私は、転職で越後から神奈川に引っ越した五カ月後のことだった。
3月下旬に引っ越したのだが、入居する新築のアパートがまだ完成せず、一週間ほど、一駅隣の別なオンボロアパートで過ごした。そのアパートには風呂がなく、駅前の銭湯に入り、そのすぐ近くの居酒屋さんで夕食をとる生活が一週間だけ続いた。
実は、その居酒屋さんと仲良くなり、毎週日曜にテニスをしているということで、その仲間に入り、実は今に続いているのである。とはいえ、居酒屋さんは、その数年後に引っ越して、別な場所で中華料理店を開いていて、日曜は稼ぎ時でテニスには参加していないのだが、メンバーは減ったり増えたりしながら、今に続いている。
予定していたアパートに入居してからも、私は、週に三日は、一駅前で降りて、その居酒屋さんで夕食をとることが多かった。もし、あのアパートの入居が遅れなかったら、テニス仲間との縁は、ありえなかった。
そして、1985年8月12日も、午後7時過ぎ位に、その店に入った。
常連さんたちと、よもやま話をしながら、音声を絞ったテレビが、日航123便がレーダーから消えたことを告げた。
たしかに、その後しばらくしても、墜落なのか、不時着なのか、まったく分からない時間が過ぎていった。
三時間半分のジェット燃料を搭載していたが、それが切れた頃、21時35分に羽田空港の日航オペレーションセンターから会社の記者会見が始まった。
羽田にある日航オペレーションセンターが画面に出る。
そこは国内線乗務をしていた時にいつもショウアップ(出勤)した懐かしい場所だった。入口には鶴が飛ぶ銅板がはめ込んであった。
詰め寄る報道陣の前で話す広報部長のこわばった顔や張り出される航空ルート。
機長の名前と機長の飛行時間。機体番号8119機の整備状況が説明されている。
8119機。ここにいる誰もが何度も乗ったことのある飛行機だ。
カタカタで書かれたおびただしい数の乗客の名前と年齢を書いた白い模造紙が壁一面に張られている。
まだ事故原因も分からず、墜落場所も特定出来ずにいる中、航空会社の出来ることは、安全を信じて乗っていただいたお客様の名前を出すことしかない。
何と悲しいことだろう。そして、15名の自分たちの仲間も一緒なのだ。
その後、テレビは一晩中、延々と乗客名簿を読み上げていた。
私も、そのテレビを見つめていたように思う。
テレビでは、羽田東急ホテルに駆けつける、乗客の家族の姿も映し出された。
寮にいた青山さん達は、なんとも言えない気持ちで、テレビを見入っていた。
突然、誰かが走って来て叫ぶ。
「DUTY(乗務担当)は国内線119Aグループ!」
「えー」と口ぐちに叫ぶ声が部屋中にこだまする。
どの部屋も扉は開けっぱなしで、ドタバタと走る音が響く。
寮母さんが外出と宿泊ノートの二冊を慌ただしくめくりながら叫んでいる。
「この寮の人が乗っているわ!」
「私の同期がいる!」
泣き叫ぶ声がどこからともなく聞こえてくる。
青山さんは、この時、119Aは、お世話になったTグループではないと思っていた。
国内線から国際線に移行していて、国内線のグループ編成の変更までは、詳しく知らなかったのだろう。
墜落場所に関する報道は、二転三転した。
青山さんの誕生日の8月13日に日付が変わった。
部屋に戻り、明日からの乗務に備えて寝なくてはならないという気持ちは焦るが、目は冴える一方であった。
青白いこの空を墜落現場で必死に助けを求めながら見上げている人たちがいる。
自分たちの仲間も乗客の救出に全力を尽くしているに違いない。
今、どこかで助けを求めながら懸命に頑張る乗客と仲間たち。
絶対に生き延びてほしい。そう心から願わずにはいられなかった。
翌日、青山さんは、その夜のフライトに集中しようと、テレビを見ないように努めた。
次第に出社の時間が近づき、寮を出ようとしたところ、フライトから帰って来た寮の仲間に出会った。
「絶対に鶴丸を隠して行ったほうがいい。服も制服とわからないように着替えて行くべきだ」
それはなぜかと聞くまでもなかった。世の中の人の視線が恐ろしく鋭かったからである。当然、自分たちが逆の立場だったら、日本航空の社員をそのような目で見るだろう。
青山さんは、成田のオペレーションセンターで、四人が生存していて救出されたことを知る。
ということは、きっともっと生存者がいるに違いない。クルーも助かっているかもしれない。そうなると事故の詳細も原因も解明しやすくなるだろうと少し気持ちが楽になった。
オペセンの食堂では、なぜかいつもつけっぱなしのテレビが消えている。ここでは同じ会社の人たちだけだという安心感で少し気持ちが安らいだが、食事をする人たちの目は真っ赤である。恐らく誰もが寝られなかったのだ。
その後、青山さん達のクルーは、沈鬱とした中で、フライトの準備が進めた。
「ボーディングです」
いつもより、緊張した声でパーサーがアナウンスをする。どう挨拶をしたら良いか、自分でも分からない、複雑な気持ちであった。いらっしゃいませと言うだけか、申し訳ございませんというべきか、笑顔でお迎えするのが果たして良いのか・・・・・・。
やり場のない気持ちは乗客も同じである。お互いに顔を突き合わせながら、今から長いフライトの始まりなのである。
私のジャンプシートの真向かいの席に乗客がひとり座った。他がガラガラにもかかわらず、このシートをリクエストしたという。きっと、何があっても一番先に逃げられるから・・・・・・。
その乗客が自分で持ってきた複数の新聞。大きな見出しが、目に飛び込む。
「日航機墜落」「満席のジャンボ、無残」「帰省、出張、一瞬の暗転」
とても見るのがつらかった。この飛行機が大丈夫という保証もない。でも飛ぶしかない。制服を着ると気持ちがすっと切り替わるのが常であったが、この日はさすがに息が詰まり、心も重かった。
「あなた方も大変だね、いつ何があるか分からないものなあ」
目の前の乗客が話しかけてくれた。思い切って言ってみる。
「このような時にうちにお乗りいただいて恐縮です」
「飛行機事故は続くというが、二日続けて同じ会社で起きたためしはないからね。他社よりもこっとのほうが安全だと思ったんだよ」
複雑な気持ちで返す言葉もなかった。
その新聞の全面に並ぶ乗客名簿のおびただしい数。
そのページの下に、乗員の顔写真入り氏名が小さく載っていた。じっと見つめる視線を察したのか、「もう読んだから」とポンと私にその新聞をくれたのである。
新聞の紙面を埋め尽くしている文字や写真が、すべて自分たちの会社のしたことだという現実をいまだに受け入れられない私がそこにいた。
サービスはあっという間に終了し、機内も暗くなり乗客たちが寝静まる。
クルーもそれぞれが食事をとったり、休憩をしたり、トイレ掃除をしたりと、機内に散っていった。
ようやく一段落した頃、暗がりのギャレーで、私はひとり、ひっそりと先程いただいた新聞を開いた。
乗員氏名・・・・・・。写真がある。
「あー」さっと体中の血の気が引いた。
そこには見覚えのある顔がたくさん並んでいるではないか!
なんということだ!
12名の客室乗務員のうちの6名が私のいたグループの先輩たちであった。
119Aグループというのは、このグループだったのか?
どうして? なぜ?
体中が凍りついて、動けない・・・・・・。
「その帽子のかぶり方は雪だるまにバケツじゃないの?」と言った富士野美香さん。
厳しいけど、息子の話をする時は優しいママさんスチュワーデスの黒岩利代子さん。
旅行好きでいつもユーモラスな二之宮良子さん。
熊本弁で、もったり、ゆったり穏やかに話す村木千代さん。
そしてご主人の写真をニタニタ見ていた江川三枝さん。
あ、この顔はアナウンスの上手な前山由梨子さんに違いない。でも苗字が違う・・・・・・。
もしかして結婚したのだろうか。新婚だったのか・・・・・・。
涙がぽたぽたと頬を伝い止まらない。
どうしてTグループが・・・・・・。
本当にここに載っているのが墜落した飛行機のクルーたちなのか・・・・・・。
この時の青山さんの心中、察するに余りある。
国内線で同じグループだった先輩たち。
新人の自分を、時に厳しく、また時に優しく指導してくれた先輩たちが、事故機に乗っていたとは、思いもしなかったのである。
そして、青山さんはこうも思ったという。
もしも・・・・・・あの時、国際線に移行していなかったら、きっとこのメンバーと共にフライトを続けていたに違いない。
もしかして・・・・・・自分もこの新聞の片隅に顔写真が載っていたかもしれない。
青山さんのこの時の心中は、とても尋常なものではなかっただろう。
私のことになるが、2001年の9.11の前後、仕事の関係で三ヵ月置きにアメリカに行っていた。
2001年の9月以前は、成田では、必ずチェックがかかるベルトのバックルも、経由地のシカゴも、帰国する際のボストンのローガン空港も、アラームはならない。
両空港の警備職人も、笑いながらお互い会話をしながら、何とも、緊張感のない勤務態度だった。
それが、9.11を過ぎて11月に行った際には、成田と同様にベルトのバックルでアラームは鳴るし、警備員の緊張感は高まっていた。
飛行機はガラガラで、行きも帰りも、三席分のスペースで寝ることができた。
11月に行く直前には、アメリカで飛行機墜落事故もあり、正直、行くのを躊躇ったものだが、仕事上行かないわけにはいかなかった。
だから、青山さんに新聞を渡した乗客の気持ちは、結構分かる。
しかし、青山さん自身の気持ちは、とても分かるなんて言えない。
その後のことは、次回。
