半藤一利・加藤陽子・保阪正康『太平洋戦争への道 1931-1941』より(2)
2021年 07月 30日
『太平洋戦争への道 1931-1941』
7月10日にNHK出版新書から刊行された『太平洋戦争への道 1931-1941』から二回目。
「第一章 関東軍の暴走」より。
まず、満州事変について、短くまとめられている部分を引用。
1931年(昭和六年)九月十八日、中国東北部の柳条湖で、日本の経営する南満州鉄道の線路が何者かに爆破されました。
関東軍は、これを中国軍によるものとして、武力攻撃を開始します。政府は「不拡大」の方針でしたが、朝鮮駐屯軍は、独断で越境して満州に入りました。
陸軍は自衛を名目に、五カ月でほぼ満州全域を制圧します。満州事変です。
しかし、越道破壊は関東軍が自ら行ったものでした。関東軍は、政府に無断で謀略を進め、内閣が決定した不拡大の方針に逆らって、軍を動かしたのです。
そして、翌1932年(昭和七年)には、満州国を独立させました。満州国は民族自決で生まれたとされましたが、実際は、行政や軍事を関東軍が握る傀儡国家でした。
歴史は、満州事変が、関東軍の自作自演であることを証明している。
しかし、関東軍の暴走を止めることはできなかった。
それは、いったいなぜなのか。
三人の会話で確認しよう。
半藤 中央部、つまり、政府ばかりでなく、東京の陸軍参謀本部が不拡大という指令を出しています。しかしながら、関東軍はそれを聞かなかった。ということは、これは統帥権干犯にあたりますから、本来は違反行為です。軍法で言えば、とんでもないことをやっている。
ところが、ソ連がこうした関東軍の動きに干渉してこないとわかった瞬間に、参謀本部も一緒に乗っかってしまいます。昭和天皇の命令が「不拡大」で、できるだけ戦争を早くやめろというのを、参謀総長は「は、承りました」と言っておきながら、参謀総長から参議へ、さらには参謀から関東軍の参謀へ、「おい、おまえたち、いい加減にしろ」というようなことをただ口で言うだけで、後半はずるずると一緒に乗っかってしまっています。ですからこれは、独断を許したというよりも・・・・・・。
加藤 陸軍中央も乗ってしまったわけですね。
半藤 このチャンスに満州国の権益をできるかぎり広げようとして動いたと見ざるをえないと思いますね。そういう意味では、まさに「侵略」であったと言えると思います。昭和天皇は、統帥権を持っている大元帥として、これは侵略であるから止めろと明らかに言っています。参謀総長はそれを承っている。だから、本当は統帥権干犯なんです。
ところが困ったことに、昭和天皇は政府が決めてきた国策に対してはノーと言わないのが、きつい“しきたり”というか、心得なんですね。ですから、大元帥としては軍を止めろ、迫害をやめろと言っているけれども、政府のほうはごちゃごちゃしているうちに朝鮮軍越境の予算を出すことを決定してしまいまい、天皇はそれを認めます。つまり、昭和天皇は「大元帥」としては抑えているんです。ところが、「天皇陛下」としては、残念ながら国家の決めてきたことに対しては、ノーと言わない、と。それで、「では許す」ということになる。ですから、これは統帥権の干犯なんですよ、違反なんです。
章末にある注で、「統帥権干犯」は、こう説明されている。
統帥権干犯 軍隊の最高指揮権の「統帥権」は、大日本帝国憲法で天皇の大権と定められていた。一般国務からは独立し、発動には陸軍の参謀総長や海軍の軍令部総長が参与。陸軍参謀の命令に背くことは、「統帥権」を犯すことにあたる。
昭和天皇は、「大元帥」としては関東軍の侵略を許さないが、国家が侵略のための予算を決めてしまった以上、「天皇陛下」としては、認めざるを得ない、という、なんとも矛盾した存在だったわけだ。
そして、関東軍は、本来なら軍法会議ものの統帥権干犯をしていながら、国家予算を使って、暴走を続ける。
その背景には、関東軍への中央政府や国民の侵略を支持する空気も存在したと、保阪は指摘する。
保阪 関東軍が、なぜあれほど横暴をきわめたのか、どうして独自の行動がとれるようになったのかを考えてみると、当時の関東軍に、本庄繁とか石原莞爾といった、軍の中でも戦略家の人たちがわりといたというのが一つありますが、もう一つ、関東軍の軍人たちの意識の中に中央からの期待が過剰にあったのではないでしょうか。その期待というのは、すでに植民地となっていた台湾とか朝鮮と違い、新しいかたちの生存圏の確保・拡大という意味で、関東軍の将校たちに対する期待感のようなものですがー。
加藤 国民の中にあった、と。
保阪 はい、そして中央の軍部や政府にもあった。それが暗黙のうちに、謀略でも許されるという空気をつくっていまったのではないか。私は、関東軍の横暴・独断というのは、もちろん関東軍にも問題はありますが、むしろ関東軍にそう思わせた原因が、やっぱり中央にあったと思いますね。
当時の国内事情は農産物価格の下落などで、経済的に大変は不況下だったと加藤が指摘する。
そうした閉塞感の中で、関東軍が革新的な活動をしていると、好意的に国民やメディアに映っていたことは、「空気」が重要な日本人にとって、大きな侵略支持の背景となったに違いない。
そして、国際連盟の脱退、という大きな転換点を迎えることになる。
国際連盟は、ウォール街の大暴落などもあり、世界中が国際関係において「引いて」いる時代だったと半藤は言う。
そして、何より、関東軍は、メディアから絶大な支持を得ていた。
1931年(昭和六年)、満州事変が勃発すると、新聞各紙は一斉に戦争支持にまわりました。
国内最大の部数を誇った『東京日日新聞』も「守れ満蒙(満州および内蒙古) 帝国の生命線」と題した四ページ全面の特集記事を掲載しました。新聞は、軍の発表をもとに競って号外を発行し、販売部数を大きく伸ばしました。
新聞とともに戦争を伝えてのが、当時急速に普及していたラジオでした。日本放送協会の当時の番組編成の方針は「ラジオの全機能を動員して、生命線満蒙の認識を徹底させ、外には正義に立つ日本の国策を明示し、内には国民の覚悟と奮起とを促して、世論の方向を指示するに務める」とされました。
ラジオを新聞は、軍の発表をいち早く伝える一方で、満州事変が関東軍の謀略で引き起こされた事実については、終戦まで報道しませんでした。
満州事変の始まりである昭和六年の柳条湖事件の翌日、九月十九日付けの東京朝日新聞の記事を本書に掲載されている。
爆破事件の翌日の記事だ。
新聞が、軍の報道機関となっていたことを物語る。
メディアによってつくられた国民的熱狂
加藤 新聞やラジオによってつくられた熱狂は、対外的な危機意識を煽りました。満州というと「中国側が条約を守らない」というイメージが庶民でも強く持っていた。そういう国民的熱狂です。これがつくられたのは、やはり新聞やラジオの力が大きいと思います。
(中 略)
保阪 新聞やラジオ、ほかに雑誌を含めてですが、反政府的な報道は、すでに明治時代から新聞紙条例などによって厳しく政府の弾圧を受けました。さらにこの時期に、メディアに携わる人は国家の宣伝要員であるというかたちができてしまった。宣伝要員だから、国家の政策、国家の進む方向に異議申し立てはできない。むしろ国民を教導していく役割を担わされるようになったのだと思います。
陸軍の中に新聞班というのができて、この新聞班の連中がメディアと日常的に接するようになる。彼らはメディアに情報を流す一方、たとえば新聞社の幹部連中と宴会をやっては、こういうふうに書け、ああいうふうに書けと言うようになってくる。
新聞班の存在がなければ、柳条湖爆破の翌日に、新聞は記事など掲載できない。
国家の宣伝要員が、国民を煽り続けてのも、あの戦争に至る大きな要因であったのだ。
当時の新聞班の代わりに、安倍-菅政権では、総理大臣自らが、メディアの幹部と食事を共にし、政府よりの報道をするように圧力をかけている。
では、今のコロナ禍での五輪開催について、メディアはどういう姿勢を示しているのだろうか。
これは、昨日のTBSのNews23の画像だ。
過去最多の感染者数を毎日更新している状況下において、東京都の吉村福祉保健局長が、「いたずらに不安を煽るな」と言っている。
冗談じゃない。
「いたずらに安心感を煽るな」と、メディアは反論すべきだ。
菅総理も小池都知事かも、こういう事務方も、まったく危機意識が希薄なのだ。
局長は都知事の指示での発言なのかもしれない。
今、どんな危機的状況にあるのかは、尾身さんに聞かなくても分かる。
「こんなコロナで五輪かよ」と言いたい。
医療現場は、とんでもない状態になっている。
今は、コロナ感染爆発という戦場に、実に細いロープで仕切られた競技場があり、そこで運動会が開かれている。
「戦場のピアニスト」を真似るなら、「戦場のアスリート」とでも言えるかもしれない。
アスリートにしても、感染の恐怖と競技の両方との戦いで疲弊しているのではなかろうか。
歴史は、この五輪をどう評価するのだろう。
いくつも、なぜが並びそうだ。
なぜ、中止しなかったのか。
なぜ、二年後2022年の開催ではなかったのか。
なぜ、いったん中止として、2032年開催を希望しなかったのか。
メディアは、五輪の「感動」も伝えようとしている。
しかし、今もっとも重要なのは、感染拡大をいかに止めるべきか、ということではないのだろうか。
あの戦争に協力してしまったメディアは、その反省に立って、コロナとの戦争に対して、権力者ではなく国民の立場で、事実、真実を伝え続けるべきだ。
さて、次回は、「第三章 言論・思想の統制」から紹介したい。