マーティン・ファクラー著『日本人の愛国』より(14)
2021年 07月 20日

マーティン・ファクラー著『日本人の愛国』(角川新書)
角川新書から6月10日付けで発行された、マーティン・ファクラーの『日本人の愛国』から十四回目。
引き続き、最終の「第八章 沖縄の人々」から。
前回は、南国、王朝の歴史、独自文化などの共通項を持ちながら、2003年に初めて沖縄を訪れた著者は、米軍基地に対する住民の思いが、ハワイで体験したものと違う印象を受けたことを紹介した。
ポリネシア系の先住民として、米軍基地に大事な祖先の土地を奪われたと抗議するハワイの人々と対照的に、沖縄では、同じ日本人なのに不公平ではないか、という表現が多かった。
しかし、その後の10年で、その沖縄の人々のアイデンティティが大きく変わったと、著者は書いている。
2009年、「最低でも県外」を掲げた鳩山首相による普天間飛行場の移設問題があった。大山鳴動して鼠一匹どころか、元の木阿弥となってしまったが、沖縄に長くかぶされていたふたを開けたと私は考えている。沖縄のアイデンティティが表出するのを押さえてきたふたが、県外への代替施設を見つけられなかった鳩山政権の迷走をきっかけに、図らずも外れてしまったのだ。
沖縄で生まれ育ってきた人々の心の奥底でくすぶってきた本質的な問題は、沖縄を除いた日本との間に存在する溝の存在だい。それは表出してしまった。
在日アメリカ軍に再編計画を一時的でも白紙の戻した例もある。
厚木基地に配属されていたF-18戦闘機など空母艦載機部隊57機を、岩国に移転する計画が2005年に公表されたものの、住民投票での圧倒的多数の反対を受け、岩国市長や山口県知事が受け入れ反対を表明したのだ。
ひるがえって沖縄はどうだったのか。自民党ではない党が与党となり、過去に例がない、大きな期待を抱かせる政治状況になったにもかかわらず、結局は何も変わらなかった。
鳩山首相にだまされたと怒った人がいても、あるいは裏切られたとショックを受けた人がいても決して不思議ではない。政権に裏切られた瞬間、今まで在日アメリカ軍基地へ向けられていた沖縄の人々の怒りが、日本本土へ向けられるようになったと私には映った。
厚木基地からの戦闘機の岩国への移転は、住民投票には法的拘束力がなく、2018年3月には、すべての移転が終了している。しかし、2009年当時、岩国はノーと言えるのに、なぜ沖縄はノーと言えないのだ、という空気が、沖縄には充満していた。
私は、2009年から沖縄とたびたび訪れているが、今まであまり聞いたことのなかった言葉をよく耳にするようになった。それは、差別という言葉だった。
日本政府は、沖縄をいまだに犠牲にしている。昔から変わらない差別の理由は、日本政府または日本本土の人が、沖縄を「違う」と見ているからである。つまり日本人と違う。沖縄に住んでいるのは、昔からこの地にいた先住民で、日本を支配した弥生人ではない、というロジックだ。
たとえば、私が石垣島でタクシーを拾ったときだ。運転手さんは私の顔を見ると、急に「弥生人たち」の批判を繰り広げた。「弥生人とはだれですか」と私が聞いたら、「本土の人です。私たち縄文人と違いますから」と説明してくれた。
人によって、その表現のしかたが違ったが、端的に言えば、自分たちは日本本土に住んでいる人たちと違う歴史やルーツを持っているからこそ、今本土に不公平な扱いを受けているという認識である。
著者は、徳之島や奄美大島への取材から、それぞれの島においても、過去の侵略の歴史の結果として、差別への強い抵抗感があることを知る。
徳之島では、17世紀に薩摩藩に支配され、島民が奴隷のごとく扱われて、サトイウキビ栽培などを強いられてきた歴史があり、400年経っても、その恨みが残っていた。
奄美大島では、同じように薩摩に対する抵抗によって生まれた副産物の事実を著者は知ることになった。
なぜ、ダークチョコレートに近い、濃い茶色の染めなのかを知ろうと思う、大島紬を作っている方々に取材した時のことだ。
祖先が、薩摩藩の武士たちから着物を隠すため、土の中に埋めたら、この色になってしまった。薩摩藩に侵攻された島の島民は、武士が綺麗な着物やそれを着る女性を奪ってしまうのを恐れた。それだけではない。奄美大島は、徳之島と同じく琉球王国の一部であったから、島民が伝統的に着る衣服は、沖縄紅型(びんがた)に近い白や赤、黄色などの明るいトロピカルな色であった。しかし、薩摩支配が始めると、島民が着る衣服に厳しい規制が押し付けられた。江戸幕府が作った奢侈禁止令は今も知られているが、江戸時代の士農工商はすべて明るい衣服が禁じられていたー。
そのため、奄美大島の島民は泥染を続けてきたのだ。大島紬は色が濃くて、遠くから見ると茶色一色に見えるが、近くで見ると違うのが分かる。青や赤も入っている。これは、奄美大島の島民の、薩摩藩や江戸幕府に対しての、静かな抵抗の表れで、自分たちの心にはまだ自由が残っているよ、という細やかな反発を意味しているのだという。
著者は、2014年に、那覇市長時代から面識があった翁長雄志(たけし)さんが、「オール沖縄」を掲げて沖縄県知事選で初めて当選し、就任あいさつのために上京した時の驚きを思い出す。
部屋に入ってきた翁長知事は、いきなり琉球語で話し始めた。私は日本語ができるが、未知の言葉に面食らった。
「ごめんなさい。おっしゃっていることがわからないのですが・・・・・・」
正直に伝えると、翁長知事は「わからないのは当たり前ですよ」と笑顔を浮かべながら、日本語と琉球語の違いを説明してくれた。
「なぜかといえば、琉球の言葉は日本語の方言ではないからです。まったく別の言語なんですよ」
翁長知事は、2000年から約14年間、那覇市長を務めた。そのころから沖縄と本土との違いをあまり強調していない印象があった。それだけに琉球語を披露したことに驚き、同時に翁長知事の胸中に思いを馳せた。なぜあえて琉球語で私に話しかけたのだろうか。
翁長知事は在日アメリカ軍普天間飛行場を、名護市辺野古へ移設することに反対を訴えて当選した。就任あいさつの最大の目的は、移設反対の考え方を安倍政権へ直接伝えることだった。
しかし、沖縄基地負担軽減担当大臣を兼ねていた菅義偉内閣官房長官との会談の希望はかなわなかった。
菅氏は、官房長官就任後すぐに沖縄を訪問し、辺野古移設へ協力的な姿勢を取り続けてきた当時の仲井間弘多(なかいま ひろかず)知事とは会食の場を設けていたのだが。
翁長県政になってから、安倍政権と沖縄との距離ができた。
それは、多くの沖縄の人々と本土の人々との距離でもあったのだろう。
著者は、2018年に他界した翁長さんに、なぜあの時に琉球語で話し始めたのか、その意図をお聞きする機会が失われたが、翁長知事にとって、あえて沖縄のアイデンティティを表出したくなる、そんな状況だったのではないかと推測する。
徳之島や奄美大島の島民が、侵攻してきた薩摩藩の侍たちと自分たちとは違うというアイデンティティがあったように、一部の沖縄の人々は、弥生人(本土の人)と我々縄文人は違う、ということを明確に表現するようになった。
次回最終回では、沖縄独立を唱える人々のことなどを紹介したい。
高齢Wワーカーは、今日と明日、夕方からラストまでの飲食店のアルバイトだ。
店のある市は、まん延防止等重点措置の対象外だったので明日までは閉店21時のままで、22日からは神奈川県ほぼ全域で県の緊急事態宣言となり、20時閉店。
何度も書いているが、一都三県は、ずっと緊急事態宣言を継続すべきだった。
そして、五輪は、いまでも中止すべきだと思っている。
