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天狗党と徳川慶喜ー吉村昭著『天狗争乱』より(15)


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吉村昭著『天狗争乱』(新潮文庫)

 吉村昭著『天狗争乱』からの十五回目。

 加賀藩の心遣いのあった寺での収容生活は、幕府による鰊蔵への移送で一変した。

 武田ら主だった者三十人ほどは、そのまま押しこめられたが、その他の者は、蔵に入れられる前に、陣幕を張った竹矢来の中にみちびかれた。そこには、警護の藩兵が待っていて、一人一人を取りおさえて強引に足枷をはめた。一寸五分(4.5センチ)ほどの厚さの松板を幅三寸(9センチ)、長さ一尺二寸(36センチ)に切ってあり、その中央に穴がyがたれていて、そこに左足を入れさせ、六寸釘で打ちとめた。逃走をふせぐための処置で、足首の太い者は強くしめつけられて顔をゆがめたが、藩兵たちは容赦なかった。
 幕府の役人は、藩兵たちに命じて天狗勢の者の衣類はもとより下着まで入念にあらためさせ、所持品はすべて没収した。

 前回ご紹介した、敦賀市サイト内の鰊蔵が「水戸烈士記念館」として市の指定文化財となったという記事から、鰊蔵の写真を再びお借りする。

敦賀市サイトの該当ページ


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 綺麗に掃除もされているが、当時は、海沿いの蔵でもあり、風雨にさらされていたに違いない。

 鰊蔵での生活がはじまった。食事は日に二度で、握り飯が一個ずつとぬるま湯があつらえられるだけであった。戸も窓も板が打ちつけられているので、蔵の中は暗い。かれらを苦しませたのは、肥料用の鰊の強烈な異臭であった。それに、排泄物の臭いもくわわって息もつけぬような堪えがたさであった。
 日没後は明かりもなく、内部は漆黒の闇になった。火の気がなく、ふとんもあたえられないので、かれらは蓆を体にかけ、身を寄せ合ってふるえていた。足枷に皮膚がやぶれた者も多く、呻き声も起こっていた。

 早く打ち首にしろと叫ぶ者もいた。
 また、こんなことになるのなら、追討軍と一戦交えて死ぬんだった、と歯ぎしりする者もいた。

 さて、月が替わった。

 二月一日早朝に、幕府追討総括の田沼意尊が、手勢百五十人、別手組五十人計二百人を連れ、駕籠に乗って敦賀の町に入り、かねて本陣とさだめておいた永建寺についた。
 すでに大目付の黒川盛泰、目付織田市蔵、滝沢喜太郎、徒目付鈴木小十郎、小倉勇七も敦賀にきていて、かれらは田沼のもとの集まり、協議した。その結果、ただちに決断役所とさだめられている永覚寺で取り調べをはじめることになった。決断所は、本堂の前に長さ六間(十一メートル)の三方を板がこいにして仮に建てられた杉皮ぶきの建物であった。
 朝四ツ(十時)、天狗勢の主だった者二十五人が、鰊蔵から出された。武田耕雲斎、同彦衛門、山岡兵部、同淳一郎、田丸稲之衛門、藤田小四郎、竹内百太郎、天勇隊隊長須藤敬之進、虎勇隊隊長三橋金六、龍勇隊隊長畑弥平、正武隊隊長井田平三郎、義勇隊隊長朝倉源太郎、滝平主殿らであった。

 決断書では、大目付の黒川が吟味にあたった。
 耕雲斎は黒川の訊問に、これまでの経緯をゆっくりとした口調で陳述した。
 藤田小四郎も、他の者も同じように陳述し、夕六ツ(六時)すぎに、一日の訊問は終わった。
 翌二日も、織田弥四郎以下十九人、ついで三日には武田金次郎ら六十ニ人の吟味がおこなわれた。

 加賀藩では、惨状を見るのがたえられず、三日の朝に江守安太郎、湯原主殿、土田宗之助が、それぞれ手勢を連れて金沢へもどるため敦賀をはなれた。また、永原甚七郎と不破亮三郎は、田沼が武田耕雲斎らの命を断つことは確実と判断し、翌四日、一橋慶喜、大目付滝川具挙らに寛大な処置をしてくれるよう陳情するため、あわただしく京都へむかった。
 しかし、田沼は、慶喜や朝廷の周囲で助命の動きが起こることを予想し、急いで事をはこぶべきだと考え、その日に処刑を断行することを決定した。処刑は斬首とし、刑場を敦賀の町はずれにある来迎寺の境内とさだめ、竹矢来をくみ、五カ所に三間(5.5メートル)四方の穴を掘らせた。

 幕府は、福井藩、彦根藩、小浜藩に、首斬りの太刀持ちを命じたが、福井藩は、藩主から天狗勢の警護にあたるよう命じられただけであると、断った。
 結局、彦根藩と小浜藩が担当することになり、彦根藩からは十二人の藩士が太刀持ちを申し出て許された。

 その日、武田耕雲斎、同彦衛門、同魁介、山岡兵部、同淳一郎、田丸稲之衛門、藤田小四郎、竹内百太郎、須藤敬之進、三橋金六、畑弥平、井田平三郎、朝倉源太郎、滝平主殿ら二十四人が鰊蔵から出され、縄をかけられた。駕籠に乗せられ、多数の藩兵の警護のもとに来迎寺境内に連行された。
 刑場の竹矢来の外には、町の者たちがひしめくようにむらがっていた。
 初めに武田耕雲斎、長男彦衛門、次男魁介が引きしえられ、徒目付斎藤大之進が、「其方共・・・・・・不恐公儀仕方重々不届仕極ニ付・・・・・・斬首申付もの也」と、申渡書を読み上げ、つぎつぎに首をはね、死骸を穴の中に落とした。

 その後も、斬首は、続いた。

 通過した地で合戦に従事した者は死罪、その他は流罪と追放令が申し渡された。

 その後も十五日まで処刑は続き、斬首された者は、計三百五十二人にのぼった。

 まったく、前例のないことだった。

 鰊蔵の過酷な生活で病死した者は、二十四人。

 その後、武田耕雲斎他の首が塩漬けにさて、江戸を経て水戸に送られた。
 そして、赤沼の牢に預けられた、三月二十四日のこと。

 その日、武田耕雲斎の家族の処刑が、赤沼の牢屋敷でおこなわれた。
  耕雲斎の妻    とき  四十八歳
      倅    桃丸    九歳
      同    金吉    三歳
  長男彦衛門の倅  三郎   十二歳
        同  金四郎   十歳
        同  熊五郎   八歳
 いずれも、死罪であった。
 また、投獄されていた耕雲斎の四女およし、妾う免(め)、彦衛門の妻いく(藤田東湖の妹)、山岡淳一郎の妻まつ、娘みす、ゆき、くり、田丸稲之衛門の母いを、倅清次郎、娘まつ、やす、むめの十二人に、死ぬまで牢に幽閉する永牢が申しわたされた。

 なんともむごい、処罰だった。

 以前、司馬遼太郎は『最後の将軍』で、慶喜が天狗党を見殺しにしたのは、原市之進など側近の提言によるものとする表現をしていたことを紹介した。
 
 では、あらためて吉村昭は、どう書いているのか。

 敦賀での三百五十二人という例をみない大量の斬首は、大きな波紋となってひろがった。
 この斬首がおこなわれたのは、一橋慶喜が天狗勢を田沼意尊にその身柄を引きわたしたことによるもので、慶喜に対する非難が一斉に起こり、その側近すらも慶喜が人情に欠けている、と顔をしかめていた。天狗勢は、慶喜ならば自分たちの意思を必ず理解してくれると信じ、京を目ざして長い苦難の旅をつづけたが、結果的に慶喜はすげなくそれをふり払った。慶喜は、幕府の心証を好ましいものにするため、自分にとりすがってきた天狗勢を冷たく突きはなしたのだ。
 幕府に引きわたされた天狗勢は、重い処分をうけると予想されていたが、大量処刑はそれをはるかに上まわるもので、幕府の苛酷な処分に対する強い批判がまき起こった。
 (中 略)
 薩摩藩小納戸頭取の大久保一蔵(利通)は、その日記に、天狗勢が土蔵に押しこめられて苛酷な扱いをうけ、その上、処刑されたことをつづり、
「この非道な行為は、幕府が近々のうちに滅亡することを自らしめしたものである」
 と、記している。

 私は、慶喜についての思いは、司馬より吉村に近い。

 「晴天を衝け」は、司馬に近いかもしれない。
 あのドラマの重要な役でもあるから、それほど悪くは描けないのでもあろう。

 しかし、慶喜の天狗党への対応は、大局的に見れば、大久保が指摘する通り幕府崩壊を早めることになったのは間違いないだろう。

 明日の「晴天を衝け」は、家茂が亡くなり、慶喜が将軍を継ぐかどうか、という時期を描くようだ。
 頭脳聡明な故に、優柔不断な慶喜の姿が、描かれるのだろう。

 
 天狗党と慶喜との関係で、私はどうしても、赤木俊夫さんと、彼が信じていた上司、そして、財務省の幹部との関係を思い浮かべてしまう。

 さて、このシリーズは、これにてお開き。

 長々のお付き合い、誠にありがとうございます。
 
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by kogotokoubei | 2021-06-26 08:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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