天狗党と徳川慶喜ー吉村昭著『天狗争乱』より(13)
2021年 06月 22日
吉村昭著『天狗争乱』(新潮文庫)
吉村昭著『天狗争乱』からの十三回目。
巻末の地図の部分拡大図。
さて、加賀藩の心のこもった対応で、天狗党一行は、敦賀の三つの寺院に収容され、屠蘇も餅もある正月を迎えることができた。
しかし、加賀藩の兵を統率する監軍の永原甚七郎が恐れていたことが起こった。
幕府の大目付の黒川、目付滝沢、そして追討軍総括の田沼意尊(おきたか)が、敦賀に行き天狗勢を吟味することなったと通達が入ったのだ。
すでに部下の不破亮三郎を京都に送っていた永原は、なんとか、朝廷と一橋慶喜の力で、その行動を止めようと不破に急飛脚で書簡を送った。
書状を受け取った不破は、慶喜の用人を通じて慶喜にこのことをつたえた。慶喜は永原の憂慮はもっともだとし、田沼が乗り出してくるのを危険だと考え、京都につめている大目付の滝川具挙も目付の織田市蔵も同意見だった。慶喜は、田沼が天狗勢の者全員をしばり首にするのではないか、と恐れ、滝川、織田とともに幕閣にはたらきかけて田沼の動きをおさえようとくわだてた。
不破は、さらに十八日に左大臣二条斉敬(なりゆき)の邸(やしき)におもむき、朝廷から寛大な処置をとるよう命じて欲しい、とうったえた。二条は、理解をしめしながらも、武門のことは幕府にすべてまかせてあるので、朝廷からはそのような命令を出すのはむずかしい、と、答えた。
その夜四ツ、不破のもとに滝川具挙からすみやかに邸にくるように、という連絡があった。
かれが出向いてゆくと、部屋には織田市蔵も坐っていた。夜に呼び出しをうけた不破は、滝川と織田が、どのようなことを話すのか、緊張した。
滝川が、口をひらいた。
「本日、田沼玄蕃頭(意尊)殿が京に着かれた。天狗勢の者を引きわたしてくれるよう一橋(慶喜)公と打ち合わせをされるはずである。天狗勢の者の取りしらべをするので、敦賀に御吟味所ももうける予定である。天狗勢の者を御吟味所へ出頭させる折には、縛って引き立てる。もしも、縄をかけることの反抗した場合には、槍、刀でおどし、それでも手がつけられぬ場合には飛び道具で射(う)ち殺してもよい。このように心得て、警備にあたって欲しい」
不破は、いよいよ田沼が京都に天狗勢の引きわたしを求めてやってきたことを知ると同時に、天狗勢に対する手荒な扱いをもとめる滝川に憤りをおぼえた。
「これまで申し上げて参りました通り、われらは天狗勢とたがいに信義をいだいて接して参り、今さら縛るなどとは、武士道にそむきます。もしも縄をかけでもしましたなら、かれらは憤激し、われらでは手がつけられぬ騒ぎになりましょう。そのような手荒なことは断じてお引き受けできません」
滝川は、さらに天狗勢を加賀、福井、彦根、小浜の四藩にあずけることを決定した、と伝えた。
これに対して不破は、
「わが藩は、一橋公のお指図で出兵したのであり、天狗勢が幕府に引きわたされるなら、お役目はすんだことになります。幕府のお指図を受ける筋はなく、これまでのわが藩の努力に免じ、天狗勢を警護することは一切御勘弁いただきたい」
と、きっぱりした口調で言った。
滝川は、不快そうに顔をしかめ、
「貴藩のよろしいように・・・・・・」
と、わずかに言っただけであった。
不破は、宿所にかえり、同行していた恒川新左衛門に滝川と会った結果をつたえた。
二人は、慶喜と田沼がどのようんなことを打ち合わせるかを話し合った。滝川が口にしたように、田沼は、天狗勢の引きわたしを慶喜に強くもとめる。これに対して天狗勢が田沼の手にわたれば悲惨な結果になることを知っている慶喜は、その要求をはねつけるはずである。
「心配するにはおよばぬ」
二人は、たがいに顔を見合わせ、うなずき合った。
長い引用になったのだが、どうしても展開が唐突に思えたからだ。
最初に慶喜も大目付の滝川も、田沼が敦賀に行くことを危惧し、幕閣に田沼の動きをおさえようとくわだてた、とあるのに、なぜこのような展開になったのか。
吉村昭は、数多くの史書、記録を調べ、また人と会って話を聞き、史実に忠実に作品を仕上げる人だ。
だから、推測などを極力排していると思う。
よって、なぜ、こうなったかを邪推すると、すでに田沼が京都に到着し、もはや流れを止めることは難しくなった、ということは考えられる。
田沼意尊はあの田沼意次が曽祖父。
天狗党追討軍総括だったが、天狗党には部田野(へたの)原(ひたちなか市)の戦いで苦汁を飲まされており、恨みは根深い。
大目付と言っても滝川では田沼には抵抗できなかったのかもしれない。
では、残るは慶喜と田沼の面談にかけるのみ。
翌十九日に、不破と恒川が慶喜邸におもむこうとすると、河原町あたりに来た時、前方から馬を走らせてくる者がいた。
馬上には慶喜の用人河村恵十郎だった。河村は、二人に気づくと、「田沼一件、大変」と叫んだ。
立ち話もできぬと、出入りの商人の家に入ろうと河村が言うのに従った二人。
奥の座敷に坐った河村は、
「これを貴殿らにわたそうと、馬を走らせてきた」
と言って、書面を不破に渡した。
文面に視線をすえた不破は、顔色を変え、
「これは・・・・・・」
と言ったまま、絶句した。
書面には、昨日、慶喜が田沼意尊と話し合った結果、天狗勢の身柄を田沼に引きわたすことに同意した、と記されていた。
「なぜ、このようなことに・・・・・・。思いもかけぬこと」
不破は体をふるわせて言った。
河村の顔もひきつれていて、
「実は、私も所用があって外出し、黒川(嘉兵衛)殿も原(市之進)殿も八ツ(午後二時)頃に所用のため退出したのですが、その直後に田沼殿がお邸に来られ、一橋公と会われた。公は、田沼殿に天狗勢が引きわたされたら、押し並べて縛り首にもするであろう、とことのほか御心配なされておられた」
と、言った。
「それほど案じておられたのに、なぜ」
不破は、もどかしそうに言った。
「ところが田沼殿は、このように話された由である。この事件には、天下の世評というものがある。公平に扱わねばならず、世の人々が納得するような処置をとりたい・・・・・・と。公は、意外なことを田沼殿が言われたので、喜びの余り、熟慮することもせず、引きわたすことに即座に同意したのである」
河村は、情けないような表情をした。
「なんという軽率な」
不破は、悲痛な声をあげた。
用人が全員不在中に田沼が慶喜を訪ねたというのは、偶然とは思えない。
邪魔な用人たち、黒川も原も河村も不在の時間を狙っての田沼の慶喜訪問だったということだと察する。
それ位のことは、やるだろう。
さぁ、不破と恒川は慌てて慶喜邸に行き、原市之進に会った。
天狗勢が田沼の手にわたされれば、過酷な扱いをうけることは間違いない。しかし、いったん慶喜が田沼に請け負った以上撤回は難しいだろう。では、田沼の暴挙を阻止するには原や黒川たち、慶喜の用人たちが敦賀で立ち会うしかない、と不破は訴えた。
原は、困惑しきったように顔をしかめていたが、
「一応、公にお話しいたしてみる」
と言って、席を立った。
不破と恒川は、長い間部屋で待たされた。二人は落ち着かず、立ったり坐ったりしていた。
やがて、部屋に原がもどってきた。原は、
「公は、かなり微妙なお立場におられる。幕府との関係は好ましくなく、ささいなあやまちをおかせば、たちまち身が危うくなる。田沼殿に引きわたしを承諾しながら、われら用人が敦賀におもむけば、公が干渉したとして、幕府から疑いの眼をむけられる。このような事情から、公は、われらが出張することをお許しにならぬ。その代わりに、京都につめておる滝川殿と織田殿を敦賀に出張してもらうようにする。それなら、幕府も手荒な処分はできぬと思う」
と、言った。
不破は、失望した。天狗勢を救うことのできるのは慶喜のみだが、慶喜は、身の安全をまもるために動こうとはしない。
不破は、慶喜が少しもあてにならぬことをはっきりと知った。慶喜に嘆願するため水戸藩領から長い旅をつづけて新保村にたどりつき、降伏して今では敦賀の三つの寺にとじこめられている天狗勢が哀れであった。かれらが敬い慕っていた慶喜は、冷淡にもかれらをはらいのけたのだ。
歴史に「IF」はタブーだが、やはり、平岡円四郎が存命だったら、と思わないではいられない。
不破と恒川は翌二十日、京都を出立し、翌朝四ツ(十時)に、敦賀の加賀藩本陣である祐光寺にもどった。
その同じ日、京都詰の目付織田市蔵から、永原甚七郎にもとに書状が届き、そこには、田沼意尊と同行して大溝(滋賀県高島町)に来ているので、面談したいと記されていた。
永原は、使番(つかいばん)の井上七左衛門と敦賀をはなれ、二十二日、指定された宿所におもむいた。そこには、田沼側の目付と織田が待っていて、ただちに話し合いがおこなわれた。
田沼側では、
「敦賀に評定所をもうけ、賊徒どもを十人ずつ引き出し吟味いたす。その折には縄でしばって差し出して欲しい。また、賊徒どもは、加賀、福井、彦根、小浜の四藩にあずける」
と、言った。
永原は、ただちに反論した。
「縛ることも、諸藩にあずけることも不承知である。そのようなことをすれば、浪士たちは憤激し、暴動にもなりかねない。むごいことばかり申され、われらは呆れ果てております。わが藩は、これまで力をつくして参ったので、お役目はこれまだ。わが藩が浪士の方々をあずかる儀はかたく御辞退いたす」
織田も口をそえてしきりに慰留したが、永原は首をふりつづけ、井上とともに席を立った。
永原らのわずかな希望は、田沼が慶喜に天狗勢を公平に処置すると言ったということだけであったが、期待はむなしいものに終わるだろう、と思った。
永原は、とても天狗の面々に縄をかけるようなことはできない、そうしなければならないと言うなら、お役御免だ、という決心だったのだろう。
その後、加賀藩は、最後の仕事を進めることになる。
まず、保管していた天狗勢の武器を、幕府側に引き渡す作業が、一月二十七日から翌日にかけて行われた。
その日、大目付黒川盛泰から、明二十九日に天狗勢を加賀藩から福井、彦根、小浜三藩に引きわたすように、という通達があった。
加賀藩では、その夜、三つの寺に収容されている天狗勢と別れの挨拶をすることになり、神田清次郎がそれを天狗勢側につたえた。
福井「越前・若狭」の旅行情報サイト「ふくいドットコム」に、「水戸天狗党と幕末福井」というページがある。
「ふくいドットコム」サイトの該当ページ
そこから、天狗党が収容された敦賀の三つの寺の写真を拝借。
左から本勝寺、本妙寺、長遠寺。
本勝寺には武田耕雲斎や藤田小四郎ら387名が預けられ、本妙寺には武田耕雲斎の次男である武田魁介ら346名、また長遠寺にも90人が収容された。
それらの寺で待つ天狗勢と永原たちの別れの場面、そして、その後については次回。
さて、五輪は、開催か中止かという論議のないまま、開催かつ観客あり、で突き進もうとしている。
これまで、分科会や専門家が提言してきたことは、まったく無視された。
国民の大半の危惧も、省みられることなない。
私には専門家や国民が政府に裏切られた状況が、永原と幕府との関係に似て思えてならない。
事実を直視し、また、科学的な根拠を踏まえたら、コロナ禍で五輪開催はありえない。
百歩譲っても、無観客開催だろう。
しかし、カネカネカネ五輪開催ブラック団は、何が何でも客を入れて開催したいと言う。
不合理で残虐な姿は、天狗党への幕府の姿と相通じる。
そこには、相手(天狗党、国民)を思いやる心など存在しない。
彼らが求めているのは、自分たちの利益だけだ。
そして、権力とカネさえあればなんでもできる、ということを見せつけて、国民が、どんなにあがいても無駄だと諦めるのを待っている。
しかし、そんなに国民は弱くない、ということを示したいと思う、そんな日々が続く。