天狗党と徳川慶喜ー吉村昭著『天狗争乱』より(12)
2021年 06月 19日

吉村昭著『天狗争乱』(新潮文庫)
吉村昭著『天狗争乱』からの十二回目。
巻末の地図の部分拡大図。

地図をもう一つ。「福井県立図書館・福井県文書館・福井県ふるさと文学館」のサイトのアーカイブにある、七年前に県立図書館で開催された「蜂起150年 水戸天狗党 敦賀に散る」という企画展の資料から、天狗党と幕府追討軍の配陣図をお借りする。
福井県立図書館・文書館・文学館サイトの該当ページ

東西南北が逆になっているが、天狗党と幕府追討軍の配置がよく分かる。
さて、前回は、武田耕雲斎が描いた降伏状に、条件がついていることで慶喜から書き直しを命じられ、用人の黒川、原が作った下書きを元に、明確に「降伏」という言葉を入れて武田が書き直した降伏状を、慶喜がいる海津の本営に永原が持参し、というところまでご紹介した。
永原は、書き直した降伏状を黒川と原に渡し、しばらく待っていると、二人が戻り、慶喜は、内容に大いに喜び、永原に会いたいとのことだった。
。
永原は、二人の後から廊下を進み、慶喜のいる座敷に入ると平伏した。
「降伏状の内容、至極満足である。その方どもの並々ならぬ尽力によるもので、嬉しきかぎりである。私から中納言(加賀藩主前田斉泰)殿にお礼の手紙を出そう」
慶喜は、さらに、
「なにかその方に褒美の物をとらそうと思うが、陣中のこと故、まともな物はない。私の持つこの鉄扇をとらす」
と言い、永原を近くに招いて鉄扇をわたした。また、羽二重二包みもあたえた。
慶喜の前を退出した永原は、別室で由比図書と会った。
由比は、降伏状の内容については異論はないとしながらも、
「天狗勢の者どもは、一人一人縛りあげ牢にとじこめ、きびしく取りしまらなくてはならぬ」
と、言った。
その言葉に、永原は顔色を変えた。
「申すまでもないことでありますが、かれらはわれらに全く敵対する気持ちはなく、たがいに信頼し合った結果、このように降伏状を差し出した次第です。それなのに、縛りあげて禁錮に処せとは何事ですか。かれらを欺いて降伏させたことになり、武士道にそむくことになります。決してそのような手荒なことはせず、寛大に扱うべきです」
永原の鋭い眼の光に、由比は視線をそらせ、口をつぐんだ。
目付の由比図書は、揖斐宿に天狗党が滞在していた際に、追討軍の先鋒を指揮していた際、「わが軍は弱く、精鋭の貴殿の軍と戦うことは、火に飛びこむ蛾にひとしい。それを知りながらここまで出陣してきたのは、武士としてやむを得ないからである。勝敗は度外視して、あえて請う。私の首をとって、京に入る土産品とせよ」と書状を送った人物だ。
由比は、この屈辱的な経験があるから、なおさら、天狗党へ厳しい仕打ちをしたくてならなかったのだろう。
永原は、ある話が気になっていたので、由比にぶつけてみた。
先日海津の本営に来た際に会った、京都詰めの水戸藩士の梅沢孫太郎から聞いた話だった。
「きくところによりますと、降伏した天狗勢を追討諸藩におあずけになられるという御沙汰があるとか。彦根藩にもおあずけになることと存じますが、その折にはどのようにことになるか。桜田事変のことをお考えの上のことでございますか」
と、言った。
由比の眼に、狼狽の光がうかんだ。
「諸藩におあずけになることは、必ず騒動のもとになります。この件については、わが藩のみに御一任いただきたい」
永原は、きびしい口調で言った。
「しかし、諸藩にあずけることはすでにきまっており・・・・・・」
由比は、そこまで言うと、席を立った。
部屋を出た由比は、慶喜のもとに行って永原の言葉をつたえた。梅沢からそのことについて話をきいていた慶喜は、永原の要求どおり天狗勢を加賀藩のみに一任するように、と命じた。天狗勢の身柄を諸藩にあずけぬことが決定した。
それを由比からきいた永原は安堵し、天狗勢を敦賀の寺院にうつして収容したいと提案し、認可された。
かれは、ただちに海津の本営をはなれ、葉原村に引きかえした。
永原甚七郎には、本当に頭が下がる思いだ。
葉原村の加賀藩本陣に戻った永原は、降伏状が受理された報告と、武装解除を要請するために、隊長の赤井伝右衛門と監軍付属帰山仙之助、徒横目神田清次郎を手勢とともに新保村に残る武田耕雲斎ら幹部のもとへ出発させた。
武田は、
「いろいろと御配慮いただき、御親切なるおはからい、心より御礼申し上げる」
と言って、頭をさげた。
赤井らは、武田らの胸中を思い、いずれも涙ぐんでいた。
ただちに、神田清次郎の指揮で武器の引きわたしがおこなわれた。大小砲、鉄砲、槍、弓、旗等が加賀藩の藩兵にわたされ、最後に、腰におびた刀がわたされた。
武田は、
「私の分をどうぞ・・・・・・」
と丁寧な口調で言い、刀を神田に差し出した。
頭をさげて受け取った神田の頬には、涙が流れた。
こうして、武装解除された天狗党は、敦賀の三つの寺院、本勝寺、長遠寺、本妙寺に収容されることになった。
警備強化のため、金沢から三浦八郎右衛門に手勢と佐野鼎、岡田秀之助の砲隊計二百名が葉原村に到着した。
師走二十四日から翌二十五日にかけて、新保村から敦賀に移動した。
加賀藩勢は祐光寺を本陣として、本勝寺に赤井、不破の手勢が、本妙寺、長遠寺に永原、三浦の手勢がそれぞれ警備についた。三つの寺の内外には、番所をもうけ、武田金三郎、佐野鼎、岡田秀之助の手勢がつめた。小浜藩からも七百名の藩兵が繰り出し、市内の取り締まりにあたった。
天狗勢が敦賀の三つの寺に収容されたと知り、慶喜は海津の本営をはなれた。
正月一日は、快晴だった。
加賀藩勢から、三つの寺に屠蘇として酒樽が持ちこまれ、さらに神田清次郎が鏡餅ひとかさねを一人ずつ呼び出してわたした。それまでは、天狗勢に人足がまじっていたので正確な人数がわからなかったが、渡した鏡餅の数で八百三十三名であることがあきらかになった。加賀藩では、さらに一人一人の姓名と生国をしらべて記録しあ。変名を使っている者もいて、一心太助と答えた者もいた。
二日以後も加賀藩から天狗勢に大樽の酒が贈られ、するめが添えられていることもあった。
それまでは米飯を、兵糧の習いとして竹の皮につつまれたものが支給されていたが、四日からは鉢入れとなった。菜は香の物と梅干しなどで、鱈のすり身を入れた汁が出ることもあった。また、足袋、煙草、ちり紙も配られ、八日からは風呂も立てられて入浴できるようになり、隊員たちは、加賀藩の心づかいに感謝した。
天狗勢への手厚い対応をしながら、永原甚七郎は、幕府が最終的にどんな処分をうけるかを案じていた。
前水戸藩主徳川斉昭の子である鳥取藩主池田慶徳、岡山藩主池田茂政、浜田藩主松平武聡、喜連川(きつれがわ)藩主喜連川綱氏、島原藩主松平忠和は、朝廷に書を呈して、天狗勢に寛大な処置をくだして欲しい、と嘆願していた。
永原は、天狗勢の処分を軽いものにさせるには、朝廷にすがり、一橋慶喜に積極的に動いてもらう以外にない、と考えていた。朝廷は、慶喜を追討総督に任じた折、その任命書に「出馬せよ」として「追討」とは記さず、さらに、降伏した折には「相当の取りはからい」をするように、と寛大な処置をとることをほのめかしていた。そのような朝廷の意向にしたがって、慶喜が、天狗勢を軽い処分ですますことが期待されていた。
永原は、朝廷と慶喜にはたらきかけるため、一月十四日に不破亮三郎を京都に出発させた。
翌日、永原が最も恐れていたことが現実になった。
その日、幕府から永原に、近々大目付黒川盛泰、目付滝沢喜太郎についで幕府の追討軍総括田沼意尊(おきたか)が敦賀に行き、天狗勢の取り調べをおこなうので、警備を一層きびしくするように、という通達があった。幕府が前面に出てくれば、天狗勢は、悲惨な運命をたどる恐れがあり、永原は、加賀藩は追討総督慶喜の指揮によって行動しているので、田沼の指図を受けることはできない、と回答した。
情勢の悪化を憂えたかれは、ただちに不破のもとに急飛脚で書簡を送り、幕府側が乗り出すのを力をつくしてふせぐよう運動することを指示した。
「晴天を衝け」でも登場した、あの田沼意尊だ。
彼の曽祖父が、あの田沼意次である。
天狗党の蜂起があってすぐに鎮圧にあたり、天狗党退去後の筑波山を占領しているが、部田野の戦いでは敗北した。
田沼意尊の、天狗党への恨みは根深い。
慶喜は幕府による田沼らの敦賀行きを聞き、どう対処したのかなどは、次回。
さて、高齢Wワーカーは、飲食業アルバイトの昼のシフトに出かけなきゃ。
昨日、ようやく21日以降も午後8時で閉店のシフトの連絡があった。
まん延防止等特別措置の期限は、7月11日までと短い。
7月前半のシフトも、すぐには15日まで明らかにならない、ということだ。
別に、飲食業の月二回のシフトに期限を合わせてくれとは言わない。
そういう配慮は、かけらもないことを知っている。
東京が緊急事態宣言レベルのステージ4に逆戻りする可能性は高いが、政府は出さないのかもしれない。
とにかく、政府も東京も、NHKも五輪を開催したいらしい。
昨日書いたNHK世論調査の記事のためだろう、拙ブログのアクセス数が5000を超えた。
たぶん、ブログを始めて、最多。
同記事へのイイネのマークも、13年間で最多になった。
元々、イイネはそう多くはつかないブログだ。
どの記事も長いから、全部読んでいただく方は、そう多くない。
しかし、自分のための備忘録的な記事でもあるので、それでいいと思っている。
調べてみると、「五輪開催誘導 NHK世論調査」などで検索すると、拙ブログが上位になる。
皆さん、本当のことを知りたがっている。
なぜなら、コロナも五輪も、多くの誤魔化しに包まれているからだろう。
こんなちっぽけなブログでも、お役に立っているなら、存在意義があるのかもしれないかな。
昨日初めてアクセスされた方は、今日の記事をご覧になり、すぐにお帰りになる方も多いだろう。
それこそ、あちたりこちたり、いろんなことを書きなぐっていますので、あまり、高い期待を持たず、気楽に今後も立ち寄りくださいね。
すり抜ける人もいるでしょう。
それでも五輪は開催なのです。
