天狗党と徳川慶喜ー吉村昭著『天狗争乱』より(10)
2021年 06月 17日
NHK「歴史探偵」サイトの該当ページ
「謎の将軍 徳川慶喜」
最後の将軍、徳川慶喜。慶喜が関わった重大事件が大政奉還と鳥羽伏見の戦いだ。最新のAIを駆使し、謎多き慶喜の内面を徹底解析。幕末の2大事件の真相を解き明かす。
天狗党の話題はなかったが、慶喜という人を知るためには、なかなか興味深い内容。
とにかく、慶喜という人は、分かりにくい人物だ。
本日深夜(18日 0:52~)に再放送があるので、ご関心のある方はご覧のほどを。

吉村昭著『天狗争乱』(新潮文庫)
吉村昭著『天狗争乱』からの十回目。
先にお詫びと訂正。
前回、この十回目が最終回、と記しましたが、まだ終わりません。いや、終われません、かな^^
今回だけでは、最期まで紹介しきれそうにありません。
ご容赦のほどを願います。
では、あらためて。
巻末の地図の部分拡大図。

地図をもう一つ。「福井県立図書館・福井県文書館・福井県ふるさと文学館」のサイトのアーカイブにある、七年前に県立図書館で開催された「蜂起150年 水戸天狗党 敦賀に散る」という企画展の資料から、天狗党と幕府追討軍の配陣図をお借りする。
福井県立図書館・文書館・文学館サイトの該当ページ

東西南北が逆になっているが、天狗党と幕府追討軍の配置がよく分かる。
加賀藩の藩兵を指揮する監軍である永原甚七郎は、天狗党が、幕府追討軍との戦を望まず、頼りとする慶喜への嘆願を望んでいることに配慮し、嘆願内容を書状(心願書)にさせ、慶喜に届ける手配をした。
その後、天狗勢がいる新保村近くに陣を敷く福井藩と彦根藩に、天狗勢への攻撃をしないよう呼びかけたのだが、彼らは幕府から追討命令がある以上は、攻撃をかけると永原の要請を拒んだ。
その後のこと。
福井藩が、翌日になって、加賀藩の意向に従い、戦闘行動に出ない、と永原に告げてきた。
その同じ日、慶喜の用人である榎本享蔵と原市之進から、一通の密書が永原に届いた。
初めに「加賀藩は『無比之御大藩』なので天狗勢を討つには『尊藩而巳(のみ)にて御十分』と、慶喜は『大悦(おおよろこび)』している」と賞賛の言葉がつづられていた。それにつづいて筆致ががらりと変わり、「天狗勢が『嘆願之筋』があるということで、加賀藩の『英気も少し相弛(あいゆる)』んでいる気配がみられる由で、戦意をうしなっていることが事実なら、『後日、天朝、幕府』によって処罰されることにもなり、慶喜は『甚だ心痛』している」と記されていた。
最後に、このような密書を送るのは「慶喜が『深く心配』のあまり『内々申上』げるわけで、『御覧後御火中』に投じて欲しい」と、むすばれていた。
この密書を読んだ永原も不破も、不快な気分になった。慶喜は、ひたすら身の安全のみをねがい、加賀藩に「英気」をふるって天狗勢を攻めよ、とほもめかしている。永原たちは、慶喜の冷酷さに肌寒さを感じ、そのような慶喜にとりすがって嘆願しようとねがっている天狗勢を哀れに思った。
この密書は、榎本、原が、慶喜の意向を踏まえて書いたものか、あるいは、慶喜の本心と無関係に、側近の原たちが作文したのかは、判断は難しいところだ。
ちなみに、司馬遼太郎は『最後の将軍』で、原市之進に関する記述の中で、こう書いている。
市之進は、妙な男であった。水戸では過激尊王攘夷派でありながら、慶喜の側近になると開国派になり、かつての同志であったら武田耕雲斎以下を越前敦賀でざん斬罪に処する旨の勇断を慶喜にせまり、説きぬいたあげくそれを断ぜしめた。
司馬と吉村は、慶喜と側近のどちらが天狗党処分に対し積極的に関与したかについて見解を異にしているようにも思えるが、とにかく分かりにくい人物が慶喜なので、どちらが正しいとも言えないだろう。
いずれにしても、永原は、密書に踊らされて攻撃するようなことはなかった。
それどころか、新保村は小さな村のため天狗勢の食糧が尽きてしまったので、三日分の米と馬の飼料を無償で送り届けたりしている。
そんな折、葉原村に、幕府の目付織田市蔵が加賀藩陣営の視察にやってきた。
永原は、これまでの経過を説明し、天狗勢が差し出した嘆願書を一橋慶喜のもとにとどけるよう使者を派遣した事情を述べた。
「嘆願書など、中納言(慶喜)様がおとりあげになるはずはない」
織田は、にがりきった表情で言い、敦賀に引きかえしていった。
翌十五日は朝から雪で、ふたたび織田が、葉原村の陣営に陣中見舞いと称してやってきた。織田は、前日と同じように嘆願書を受理することはあり得ないことを口にし、
「ついては、貴藩は大藩であるのに、戦をためらっていては、御公儀(幕府)のおとがめをうけることも考えられる。このことを十分にお考えになられ、すみやかに天狗勢と雌雄を決すべきである」
と、きびしい口調で言った。
織田の言葉は、加賀藩勢が天狗勢と戦うことを恐れている、と言っているのと同じで、永原の胸にはげしい憤りがつきあげた。かれは、眼に怒りの涙をうかべ、
「わが軍勢が戦うことをためらっておると申されるが、まことに奇怪千万なことを申される。追討諸藩のなかで、わが加賀藩勢のみが、天狗勢にむかい合っており、もとよりわれらは、死は望むところ。そのようなことを申されては、武士の面目が立ちませぬ。すぐさま今夜、夜討ちをいたす。わが軍勢の決死の戦いぶりを御覧下され」
と、眼をいからせて言った。
同席していた赤井伝右衛門、不破亮三郎も、憤りにみちた視線を織田にすえた。
これ、ある意味では、攻撃させようとする織田の作戦勝ちだったかもしれないが、永原は織田に言った。
「もともと、水戸藩内で、このような紛争が起こったのは、公辺(幕府)の水戸藩に対する御処置がよろしくなかったからであり、それによって天下は動揺し、朝廷も憂慮なされておられる。このようなつたない公辺の措置によって、百万の大軍にもまさる天狗勢の勇士たちを皆殺しにするとすれば、それは天下の大損失。かれらは信義を重んじ、いささかも乱暴する気配もみせぬのに、一方的に討ち取れば人の道に反するのみならず、信義をやぶり、武門の本道にももとる。去る四日の軍議で、討つか討たぬかは、天狗勢とむかい合った藩の主将にまかすと定まりました。天狗勢には降伏のきざしがあり、もしも降伏するとすれば、血を流さずして平和をむかえることができましょう。このような次第で、これまで戦うことをひかえておりましたが、ただ今のお言葉、主家の名誉をけがされたも同然であるので、ただちにこれより血戦いたす」
永原のにぎりしめた拳は、ふるえていた。
身じろぎもせず無言できいていた織田の眼にも光るものが湧き、かれは、しばらく口をつぐんでいたが、
「申すことはもっともである。貴藩の軍勢がひるんでいるとは思ってはおらぬ。今夜の夜討ちはいたさぬように・・・・・・」
と、言った。
さらに織田は、諸藩の総攻撃を十七日とすると告げ、その間に永原たちが天狗勢をおだやかに降伏するように仕向けて欲しい、と述べ、加賀藩がひるんではいないことを慶喜にもつたえる、と言って、本陣を去った。
目付の織田市蔵、話せばわかる人物で、良かった。
さて、その織田が、中納言(慶喜)が、受け取るはずがない、と言った天狗党の嘆願書のこと。
その日の夜、嘆願書を一橋慶喜のもとに持っていった加藤九左衛門と辻政之助が、葉原村の陣所にもどってきた。
加藤と辻の報告を、永原らは暗い眼をしてきいていた。慶喜は、天下を騒がせた賊徒の嘆願書など受け取らず、降伏書なら受ける、と言って突っかえしたという。
この慶喜の嘆願書への対応も、彼本人の意志なのか、側近の意見が背景にあったのか、微妙だ。
永原らは話し合い、その旨を武田耕雲斎につたえて嘆願書を返すことになり、帰山仙之助が新保村にむかった。
天狗勢の本陣に入った帰山は、武田に事情を説明して嘆願書を返し、
「十七日に戦をしかけますので、御用意いただきたい」
と、告げた。
武田は、
「中納言(一橋慶喜)様に対し、敵対するつもりはなく、貴藩に対しても同様である。なにとぞ、中納言様に御嘆願のこと、かさねてお願いいたす」
と、懇願した。
十六日の朝をむかえた。雪がちらついていた。明朝の総攻撃をひかえ、加賀藩の陣営は静まりかえっていた。
永原は、このような情勢になっては、天狗勢に降伏をすすめる以外にないと考え、軍使として不破亮三郎を新保村におもむかせた。
不破は、道を急いで天狗勢の本陣に入り、藤田小四郎と会って、ゆきづまった現状を述べ、降伏をすすめた。
藤田は黙ってきいていたが、
「われらの嘆願をおききとどけいただければ、どのような御処置をうけようと、少しも異存はありません」
と、答えた。
不破は、うなずき、本陣を出て葉原村に引きかえした。不破の報告を、永原は無言できいていた。どのような御処置にも異存がないということは、降伏を意味するが、それは嘆願がうけられることを条件にしている。
藤田は、武田耕雲斎に不破の申し入れの内容を報告した。武田をはじめ、山岡兵部、田丸稲之衛門、竹内百太郎は無言であった。
しばらくして、武田が、
「軍議をひらこうと思うが、いかがか」
と、山岡たちの表情をうかがった。
かれらは、黙ったままでうなずいた。
「本州鞍部の町 敦賀の歴史 要地にある町」というサイトから、木ノ芽峠から見た新保村と天狗党本陣跡の写真を拝借。
「本州鞍部の町 敦賀の歴史 要地にある町」のサイト


雪の中、新保村の天狗党本陣で、軍議がひらかれる。
降伏か徹底抗戦か、軍議やその後のことは、次回。
