天狗党と徳川慶喜ー吉村昭著『天狗争乱』より(8)
2021年 06月 14日

吉村昭著『天狗争乱』(新潮文庫)
吉村昭著『天狗争乱』からの八回目。
巻末の地図の部分拡大図。

「福井県立図書館・福井県文書館・福井県ふるさと文学館」のサイトのアーカイブにある、七年前に福井県文書館で開催された「蜂起150年 水戸天狗党 敦賀に散る」という企画展の資料から、天狗党と幕府追討軍の配陣図をお借りする。
福井県図書館のサイト

東西南北が逆になっているが、天狗党と幕府追討軍の配置がよく分かる。
幕府側の作成なので、天狗党の所在する新保には、「賊屯集所」と書かれている。
さて、天狗勢と追討軍の先鋒となっている加賀藩勢が、接近していた時期、薩摩藩が、工作に動いていた。
追討諸藩が敦賀方面に移動をはじめた時、慶喜失脚の工作を担当したのは、薩摩藩士河田十郎であった。
河田は、追討諸藩に遊説してまわった。慶喜は、水戸前藩主徳川斉昭の第七子で、天狗勢の動きに理解をしめしている。慶喜には、天狗勢を討伐する意思はなく、降伏させて寛大な処置をとるつもりでいる。もしみ天狗勢が強硬に押し通ろうとして諸藩がこれを阻止するため戦闘をまじえれば、慶喜の意思にそむくことになる。
このようなことを河田は熱心にといてまわり、話に筋道が一応通っているので、その説に耳をかたむける者が多く、諸藩の中に動揺が起こった。大垣、彦根藩などでは、天狗勢と対戦しなければならぬような場合になっても、戦いは避けるべきだとう空気が強まった。
これを知った慶喜は、狼狽した。追討の任をあたえられながら戦闘を回避しようとしている、とみられては、幕府の怒りをまねき、自分の立場が危うくなる。そのため、慶喜は、追討諸藩に対し、
「(流言、浮説にまどうことなく)無二念(ぬなんなく=容赦なく)追討鏖殺(みなごろし)いたし候様」
という指令を発した。
なんとも、慶喜という人の行動は、理解するのが難しいことが多い。
このシリーズの三回目に、水戸藩で京都に詰めていた執政の大場景淑たちの慶喜への働きかけを紹介した。
尊王攘夷派に属する大場たちは、敵対する水戸の門閥派のせいで幕府が天狗党追討令を出したことにより、他藩が天狗党を捕らえた場合、極刑になる危険性を案じ、協議した。
さまざまな意見が出たが、結論として、他藩の者に討ちとられるのを見過ごすよりも、京都にいる水戸藩の者たちが天狗勢討伐を手がけ、説得して降伏させ、かれれが死罪などに処せられないよう働きかけよう、ということになった。
そのために重要なのは、慶喜であり、大場たちが慶喜に提言する部分を、重複するが引用する。
大場らは、慶喜のもとにおもむき、自分たちの考えを述べ、天狗勢討伐に立って欲しい、と強くうったえた。天狗勢に対してどのような態度をとったらよいか、と思いまどっていた慶喜は、大場らの申し出を最良の策を考え、即座に同意した。
十一月二十九日、慶喜は、朝廷に次のような天狗勢追討の願書を提出した。
「この度、天狗勢が多人数、中山道を進んできており、容易ならざる様子であるときいております。もしも、京都にせまるようなことがありましては、朝廷をおまもりする禁裏守護総督として、手をこまぬいているわけには参りません。右の人数の中には、私の実家である水戸藩の家来もまじっている由。まことに申しわけなく、すみやかに近江まで出向いて追討したいので、なにとぞおひまをいただきとう存じます」
しかし、朝廷では、禁裏守護総督の出陣は、かえって人心を動揺させることになる、と却下した。
慶喜は納得せず、さらに強く要請をくりかえしたので、朝廷では、翌三十日の八ツ半(午前三時)頃、ようやく許可することをつたえた。その許可書には「追討」という文字はなく「出馬」とあり、しかも、「降伏した折には、相当の取りはからいをするように・・・・・・」と、寛大な扱いをすることをほのめかしてあった。
これが、慶喜側の、状況だった。
だから、薩摩藩の河田十郎が、追討諸藩に語っていた内容は、まさに、図星なのであった。
しかし、建前では、禁裏守衛総督として天狗党の追討を命じられているわけで、本音の部分を悟られては、薩摩のみならず周囲の幕府側陣営からも非難されてしまうから、追討軍には「皆殺し」しろと命令を出した。
しかし、こういう慶喜の態度、行動を、あくまでわが身の保身のために、自分を頼って命がけでやって来る天狗党を見殺しにしようとしていた、と評することもできる。
とはいえ、慶喜の立場は、なんとも微妙だった。
この時、将軍は家茂だった。
家茂が、孝明天皇の妹、和宮を妻に迎えるにあたって、孝明天皇から、老中が代ろうと攘夷を実行することを、幕府は約束させられている。
しかし、慶喜は、攘夷など無理であることを、頭では十分に分かっていた。
とはいえ、建前として破約攘夷の意思表示をすることで、孝明天皇から信頼を得ていた。
その姿に、天狗党は、やはり、烈公(父斉昭)の血をひく慶喜しか頼る人はいない、とすがろうとしていたのだ。
朝廷、そして、家茂への慶喜の複雑な思いも、天狗党への対処方法に影響を与えたかもしれない。
さて、慶喜は、本音なのか建前なのかはともかく、薩摩の工作に対抗し、諸藩に天狗党追討をきびしく通達した。
これによって、諸藩の動揺はしずまり、天狗勢追討に兵を進めたのである。
葉原村に入った加賀藩勢は、ただちに陣がまえに取りかかった。監軍永原甚七郎は、先鋒の武田金三郎指揮の鉄砲隊に、新保村方向の葉原村のはずれに陣をしくよう命じた。
そのようにあわただしく布陣を推しすすめている時、新保村方面に探索を出していた徒横目(かちよこめ)の荒井幸助と平田鎌之助が、永原のもとにもどってきて一つの情報をもたらした。天狗勢の先ぶれの書状を持った僧の姿をした者が、葉原村の方にむかって歩いてきているという。永原は、これから銃砲隊をひきつてれて村はずれまでゆく武田金三郎に、その僧を捕らえることを命じた。武田は、それを村はずれにむかう浅野佐六ら五人に命じ、浅野らは雪中を大砲をかついで進んでいった。
探索の者が言った通り、降雪の中を一人の僧が坂道をおりてきたので、五人がかりで捕らえ、永原ら幹部のいる本陣に引き立ててきた。
僧は恵林と名乗り、美濃の谷汲村の生まれで、小野斌雄(藤田小四郎)に心服し、小野の馬の手綱をとって天狗勢にくわわってこの地まで来た、と陳述した。所持品は、提灯、笠、鋏、盃などであった。
注目されたのは、恵林が懐中にしていた敦賀陣屋あての天狗勢総大将武田耕雲斎の書状であった。それは、いずれの藩とも戦う意思がないので、無事に通過させて欲しいという内容であった。
永原は、恵林を一橋慶喜のもとに送った。
永原甚七郎について、昨夜の「晴天を衝け」では、まったくふれていない。
さて、かたや、慶喜の方では。
十二月十日の夜、一橋慶喜の探索方である渋沢成一郎がは葉原村に来て、
「すみやかに賊徒を攻撃するように・・・・・・」
という慶喜の命令をつたえた。慶喜は、薩摩藩の工作によって幕府から疑いをかけられることを恐れ、第一番手の加賀藩勢に積極的に攻撃するよううながしたのである。
この命令にもとづいて、新保村の天狗勢に夜討ちをかけることになったが、兵がその日の雪中行軍で疲れていることと、天狗勢のすべてがまだ新保村に入っていないという理由から、中止された。
この、夜討ちの中止は、分岐点の一つだと思う。
なぜなら、翌朝、雪は止んでいたが寒気厳しい中、加賀藩追討軍が新保村に向けて出立しようとした時、新保村の村人が、天狗勢から託された書状を持ってやって来たのだ。
書状をひらいた永原は、文字を眼で追った。
「寒冷の候、道路御警衛なされ、御苦労千万のことと推察いたします。われらは、御承知のことと存じますが、水戸の門閥派市川三左衛門等の中傷によって幕府に疑いをかけられ、烈公(前藩主斉昭)の意志も消滅してしまいましたので、ぜひとも『主家之縁族』に嘆願のため、このように進んで参りました。それ故、諸藩と戦う気持ちは毛頭なく、なにとぞ無事にお通し下さいますようお願いいたします。
武田伊賀守(耕雲斎)内
安藤彦之進
御固所御役人衆中」
この内容は、前日、とらえた僧恵林の持っていた敦賀陣屋あてのものと同じで、武田耕雲斎は、隣村である葉原村に加賀藩の軍勢千余が陣をかまえているのを知って、御固所御役人衆中へ、としたのである。
永原は、赤井、不破らと武田耕雲斎からの書状について検討し、返書をしたため、加藤九左衛門にその書状を武田のもとにとどけるよう命じた。
加藤は、従者をしたがえて新保村の天狗勢本陣におもむき、書状を武田に渡した。書状には、お申し入れ通り道を通らせてあげたいのだが、わが藩が出兵したのは追討総督一橋慶喜の命令にしたがったもので、「是非なく一戦に及ぶべき存寄(ぞんじより)に御座候」と、交戦の決意をつたえていた。
永原らは、陣を一層かためて天狗勢の動きを見まもっていたが、やがて折りかえし武田からの書状が送られてきた。そこには、加賀藩が「一橋御加勢として我々(の通る道をさえぎっているとは)甚心痛」として、大きな驚きを悲しみが記されていた。さらに、前に送った書状で「主家之縁族」と書いたのは一橋慶喜のことであり、嘆願の筋があるので、慶喜にも通じて欲しい、と懇願していた。
加賀藩の随所からの書状で、慶喜が天狗勢追討の総指揮に任じていることを初めて知った武田ら天狗勢の幹部は、愕然とした。水戸藩領の大子村を出て、多くの苦難にもたえてひたすら京都を目ざしてきののも、慶喜の温かい懐の中に入る日を思いえがいていたからであった。が、思いがけず慶喜が、自分たちを追討する総督になっていることに大きな驚きと悲しみをいだいたのである。その衝撃が書状の「甚心痛」という表現にあらわれていた。
天狗党から見れば、自分たちの正義を信じてくれる唯一の人物と信じてきたのが慶喜なのに、その慶喜が追討軍を指揮しているという事実には、驚愕したに違いない。
この加賀藩からの書状で知った事実が、天狗党の目的そのものを消し去った、と言えるだろう。
天狗党の書状に読み取れる大きな驚きと悲しみを、永原甚七郎の心を動かすことができたのかどうか。
そして、その後の、天狗党と慶喜との間には、何らかの接点が出来たのかどうかは、次回。
