天狗党と徳川慶喜ー吉村昭著『天狗争乱』より(2)
2021年 06月 09日

吉村昭著『天狗争乱』(新潮文庫)
NHK大河ドラマ「晴天を衝け」の次回は、出身である水戸で起こった天狗党の乱に、徳川慶喜がどう対処するかが主題となる。
ということで(?)、吉村昭著『天狗争乱』からの二回目。
これが、巻末にある天狗党行軍の地図。

前回は、揖斐宿に着いた天狗勢が、いざ中山道に引き返し、大津から京都に向けて出発しようとしたところ、幕府の天狗党追討の先鋒である目付由比図書から手紙が届き、その内容から、中山道には諸藩が布陣していることを察したことを紹介した。
では、どうやって京へ上るのか。
諸将が呼ばれ、武田を中心に軍議がひらかれた。
藤田小四郎が。在京諸藩が出陣して中山道を中心に布陣していることを説明した。部屋には、沈鬱な空気がひろがった。
軍議の結論はすぐに出て、中山道を断念することに決定した。
それでは、どの道をたどって京都におもむくか。
「棚橋衡平殿の意見をおききしたらいかがでしょう」
藤田が言い、武田らも賛同した。
前回ご紹介したように、棚橋衡平は、天狗勢に戦々恐々としていた揖斐の陣屋の人々との折衝役を買って出た人だった。
彼は、名古屋、京都で学問を身につけた後、旗本岡田将監につかえ、江戸で赤坂薬研坂にある岡田将監の屋敷で家臣らの教導にあたった。その後、岡田家をはなれて、揖斐の長源寺に住み、京都、大坂におもむいて尊王攘夷の志士らにまじわっていた。尊王攘夷の思想を信奉するかれは、天狗勢に親しみをいだいていた。
その棚橋が呼ばれた。
藤田小四郎は、棚橋を信用していて、率直に事情を話し、中山道を通らない別の道をたずねた。
棚橋は、畳にひろげられた大きな地図の前に近寄り、
「一つは、この揖斐川をさかのぼりまして、美濃と近江の国境を越え、琵琶湖の東岸に出て京へ行く道があります。しかし、琵琶湖付近には、彦根藩の軍勢がひかえておりまして容易に通行できませぬ」
と、言った。
かれは、さらに身を乗り出し、
「残る道は、北へむかい越前、若狭をへて京にいたる」
と、地図を指でたどった。
藤田らの視線が、棚橋の指の動きにそそがれた。地図と言っても、通過してきた土地の者に、その度にきいて大きな紙に筆でえがいてきたもので、むろん揖斐以北は、西に揖斐川、北に揖斐川の支流である根尾川の川筋がえがかれているだけであった。
「道はあるのですね」
藤田が、棚橋の顔を見つめた。
「あるにはあるのですが、容易ならざる道で、私はもとよりこの村の者も、だれ一人として行った者はおりません。越前方向から、魚などを売りにくる者がいるだけで・・・・・・」
棚橋は、心もとないように言った。
「容易ならざる、とは?」
藤田が、たずねた。
「きくところによりますと、かなりきつい登りで、その上、道がひどくせまく・・・・・・。人がようやく通れるほどで、馬は通えぬ、ときいております。それに、この美濃と越前との国境にある峠のあたりは、ことにほか雪が深く、そのため冬は通行が途絶し、今は通る者は一人もなく・・・・・・」
棚橋の言葉に、部屋のいる者たちは暗い眼をし、地図に眼をむけていた。
棚橋は、地図から顔をあげると、
「ただし、古くからこのように言われております。この村に雪がない時には、峠も雪が少なく越せる・・・・・・と。今年は、雪がちらつきましたが、雪は積もらず、このような冬はめったにありません。恐らく、この分では、越前へ越えることができるのではないかと思います」
と、言った。
藤田はうなずき、
「京への道がその道しかないとなれば、進む以外にない。いかがでございましょう」
と言って、武田の顔に眼を向けた。
「その通り」
武田が答え、他の者たちもうなずいた。
藤田は、棚橋に矢立ての筆をわたし、越前の国へむかう道筋を地図に記させた。
京への道は、狭く険しい道を進み蠅帽子峠を越えることに決した。
しかし、天狗勢の中には、途中の戦闘で負傷した者もいたし、女、子供も含んでいた。
軍師の山岡兵部の提案もより、負傷者や女、子供は揖斐宿に残さざるを得なかった。
揖斐宿の者たちは、棚橋をはじめ天狗勢に好意をもっていて、その上、宿場は中山道から遠くはずれているので、身をひそませるのには適している。
山岡たちの言葉をきいていた棚橋は、
「それらの者の世話は、私どもがお引き受けいたしましょう」
と、言った。
軍議が終了し、武田の指示で藤田が、負傷者と女子供をこの揖斐宿に残留させる役目を引き受けた。
かれは、諸将に負傷者たちを本陣の前に連れてくるよう命じた。
やがて、かれらが本陣の前にやってきた。戸板にのせられている者もいれば、杖をつき隊員の肩にすがって歩いてくる者もいる。
かれらの前に立った藤田は、これから越前へむかうことになったが、その道は想像を絶した難所つづきであることを述べ、
「同じ志をいだいて戦い、ここまで来たが、これからたどる道は、手負いの者が越えられる道ではない。軍議によって、その方たちをこの地にとどめることにした。お前たちと別れるのは、身をきられるように辛い。この地で十分に傷をいやして欲しい。いつの日か再び会おう」
と、切々と説いた。
かれらの間に、はげしい動揺が起こった。戸板の上に横たわっていた者は、痛みに顔をゆがめながら半身を起こし、他の者は藤田の顔に視線をすえる。かれらはなにか言おうとしているが、言葉は出ない。手当を受けながらここまで連れてきてもらったかれらは、けわしい山道にかかれば、さらに隊員たちの足手まといになる。それを知っているかれらは、連れていって欲しい、とは言えぬのだ。
「よいな」
藤田の言葉に、かれらの眼から涙があふれた。
負傷者や女子供を除いた、約千人の天狗勢の行軍が始まった。
やがて、出立の太鼓が打ち鳴らされ、隊員たちは整然と列をくんだ。
武田をはじめ武将たちが馬にまたがり、列が動き出した。女たちは、隊列についてゆき、宿場のはずれにゆくと足をとめた。彼女たちは身を寄せ合って見送り、肩をふるわせて泣いていた。
天狗勢は、北への道を遠ざかっていったが、馬にまたがった一人の武士が、従者を連れて、それを追っていった。
武士は、馬を急がせ、藤田をならんだ。
藤田がいぶかしそうに武士の顔を見つめると、武士は、
「薩摩藩士中村半次郎と申す者です」
と、名乗った。中村は、明治に入って陸軍少将となり、西南戦争で西郷隆盛とともに戦死した桐野利秋の前名であった。
なぜ薩摩藩士が訪れてきたのか。藤田は首をかしげた。
中村は、西郷隆盛の伝言をつたえに来たことを口にし、
「幕府追討の諸藩の軍勢が中山道をかためてはおりますが、それを突破し中山道を進み、京都に入るべきです。貴殿の軍勢は比類のない精鋭で、追討軍を蹴散らすことは容易です。わが薩摩郡も助力を惜しみません」
と、言った。
西郷は、一橋慶喜との対立をふかめていて、天狗勢と京都から出陣している諸藩との全面衝突によって、慶喜を窮地におとしいれようとはかっていたのである。
そのような意図がひそんでいることを知らぬ藤田は、
「われらは、軍議の決するところにしたがって行動しております。せっかくの御助言ではありますが、御辞退いたす」
と、答えた。
中村は、なおも中山道を進むようにしきりにすすめたが、藤田が首をふりつづけていたので、あきらめて道を引きかえしていった。
空には、厚い雲がひろがっていた。
西郷隆盛が、天狗党に助勢しようとする背景には、もちろん、慶喜をおとしめるという政略的な面もあるだろう。
しかし、西郷にとって、水戸は特別な思いのある藩だ。
西郷の哲学の面での師匠の一人は、藤田小四郎の父、藤田東湖だった。
思い出すが、「西郷どん」に、藤田東湖が出なかったなぁ。ありえない。
さて、水戸藩伝統の「水戸学」は、尊王攘夷思想の源と言われる。
藤田幽谷、藤田東湖、会沢正志斎ら優れた学者のもとには、吉田松陰や真木和泉もはるばる水戸を訪れたし、西郷隆盛も大きな影響を受けた。
「尊王攘夷」というと攘夷の言葉から過激な思想と思われがちだが、天皇を尊び、外国の侵略から日本を守るという考えは、隣国のアヘン戦争や、ペリーの砲艦外交の本質を知る当時の知識人には、しごく当然の考え方であり、明治維新の基本精神でとも言えた。
歴史のタブーな「IF」の一つ、もし、天狗党が中山道に戻ったら、どうなったのか。
史実は、北の道だった。
これが、巻末の地図の部分拡大版。

その越前への行軍については、次回。
