徳川慶喜の、数少ない痛快な出来事。
2021年 05月 16日
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徳川慶喜という人は、最後の将軍になる前から松平春獄はじめとする諸侯や攘夷を叫ぶ志士たちからも期待されていた。
十四代は紀州慶福(よしとみ)、後の家茂に譲り、将軍後見となった。
今夜のドラマは、安政の大獄後、後見となった慶喜が、開国か攘夷かで公家を巻き込んでの騒乱の中、京都に滞在中の出来事。
最後の将軍になってから、明治維新までの間の慶喜は、正直なところ、華々しい将軍像を示したとは言えない。
幕末のあの時期、慶喜が輝いた数少ない一瞬が、今夜示された場面のような気がする。

司馬遼太郎著『最後の将軍』
司馬遼太郎の『最後の将軍』から、あの場面を確認したい。
ドラマとは、部分的に異なった経緯をたどっている。
慶喜は、攘夷などは無理であることは、頭で十分に認識していた。
文化三(1863)年の八月の政変で、長州藩とその系統の過激な公家七人が都を追われた。
その後、長州に代わって朝廷を操っていた薩摩が、孝明天皇の攘夷の思いが浸透していた公家衆を、水面下で次第に開国論に覆させつつあった。
もし、幕府も開国になびけば、薩摩がますます勢いを増す事態になると考え、形式だけでも攘夷の姿勢を示すため、横浜港を閉じることを決め、天皇の勅許を得ていた。
そんな時の出来事。
このころ、将軍家茂が再上洛し、二条城に入っている。慶喜も登城し御用部屋に詰めていると、家茂自身その部屋に臨み、「御酒くだされ」があった。松平春獄、伊達宗城、島津久光も同席によばれ、家茂みずから酒器をとり、彼等の盃に「御酒」を注いだ。家茂が去ったあと、島津久光が、
「実は」と、慶喜にいった。今朝ほど、わが家来の高崎猪太郎が中川宮邸にまねかれた。そのときの御咄に、「例の横浜鎖港の御沙汰書は、あれは手違いにて、叡慮ではない。されば無きことにせよ」とおおせられた。「右の次第でござる。御念までに」と、島津久光はいうのである。
「なんと」
慶喜は、三人を見すえた。慶喜にとってこれほどの侮辱はないであろう。自分への侮辱だけではなく幕府侮辱もはなはだしい。中川宮を通じて得た御沙汰は薩人にはほんものではなく、幕人にはにせというのか。
(捨てておけぬ)
と思った。いまこそこの賢候らの国家容喙を断つべきであろう。かれらを断ち、朝命はすべて自分一手に集まり、それを幕府へ差しだすということがなければ、こんにちの病患は救いがたい、と思った。
「いまから中川宮御屋敷へ参ろう。いざ参られよ。対決せん」
と、慶喜は立った。三人もやむなく立ち、ともどもに二条城を出、慶喜に曳きずられるがごとく中川宮へ行った。
中川宮、かつては獅子王院宮とも言い、往年は尖鋭的な攘夷論者であり、安政ノ大獄以後は佐幕派になり、ついで近頃では宮廷親薩派の巨魁になっている。
宮は慶喜らの不意の来訪に、すぐさま用件を察した。座を和らげる必要ありと見、近所の仕出し屋から大いそぎで酒肴をとどけさせ、それを供し、大いにもたなそうとした。慶喜はそれを察した。その酒を逆用した。
「お盃が、ちいそうござる」
と言い、吸物の蓋をとって給仕の小侍に注がせた。このころの慶喜は酒好きではない。が、宮も三候も目を見はるほどに飲み、たちまち手足まで赤くなり、一個の酔漢に化した。目が、ぎょろりとすわっている。
慶喜は、芝居がかった行動が多い。
たとえば、朝廷から攘夷の決行はいつかと再三問われた四月十九日に、五月十日、と答えた。
幕府重役が慌てると「攘夷など絵空事である。どうせ出来ぬなら、準備もなにも致しようのない日に決行の日をきめるしかない」と答え、将軍家茂を京に残して江戸に戻った。
桑名から船で熱田に渡り、ことさらゆっくり東海道をくだっている。
江戸に着いたのは五月八日。
翌五月九日に登城し、「よろしく攘夷実行の儀を取り計らうべし」と告げた。
号令しただけで、細部を言わず、質問も受けず帰ってしまったから、老中も奉行も何も出来ない。
その四日後に再度登城し、突然「将軍後見職を辞職する」と言った。
すでに桑名からその旨の手紙を朝廷にも出していた。
司馬遼太郎は、こう書いている。
慶喜独演の芝居の本旨はそこにあったか、とひとびとは肚のうちでうなずいた。芝居とすればなんと小面憎い筋であろう。京への義理だてで攘夷の号令だけはする。しかしあえて実行方法を明示しない。このため幕府組織は攘夷戦争にむかって動こうにも動けず、諸役人唖然とするうち、号令を発した当人は足音を踏みとどろかせて花道のほうへひきあげてゆく。こうすれば慶喜も傷つかず、幕府も傷つかず、四方八方なにごともない。
ー一橋卿の気味のわるさよ。
幕閣の者も、大奥の女官も、ひとしくこのあまりの名演技を見て、あらためて慶喜という人物に底おそろしさを感じた。
こういうことをする役者なのだ、慶喜。
中川宮邸で、酔いに乗じた慶喜は、その後、どうしたのか。
「あの一件、まことでござるか」
と、沙汰書の変改の件に断じ入った。宮は当惑し、薩人に左様なことを申しや覚えはない、と身をかわそうとしたが、そこに島津久光がいるため、やがて言葉がつまった。
「不都合でござる」
慶喜が、声をあげて宮へ一喝した。「日本国を、宮は弄ばれるか」とつづけ、さらに慶喜は、おそらく天下第一であろうその得意の弁論を宮にむかって展開した。その音吐は梁の塵も動くほどによく響き、しかも微妙な抑揚があり、つねにその効果は劇的であった。この点でも、慶喜が天性の役者だったのであろう。やがて一段と声を励まし、
「薩人の奸謀は、天下の知るところ」
といった。瞬間、一座のどの顔からも、血の気がうせた。当の島津久光は両手で袴をつかみ、その手の甲の血管までが慄えているようである。この場合、「奸謀」に乗せられた春獄、宗城も、この慶喜の罵倒を、久光と倶に受けねばならぬ立場にあった。春獄は昂奮したときの癖でしきりと下唇を前歯のはしで湿している。齢三十八ですでに髪が半白の伊達宗城は、十も年下の慶喜の暴言を、どういう表情で受けるべきか迷っているらしく、盃を置いて表情を消し、視線を床柱の横の黒ずんだ釘隠しにむけていた。十六葉菊花紋である。慶喜は、この一座の衝撃をことさらに無視した。
「その薩人奸邪の言を、宮お一人が御信用あそばしているゆえ、つい二枚舌をお使い遊ばされ、こんにち、かかるごとき大手違いが出来したわけでござる。薩摩の陪臣の言を信じられ、天下の後見職をないがしろにされるとあればもはや日本国は立ち申さず。かかる宮なれば日本国のために討ちとめ、拙者その場で自害せんと思い、それがための鈍刀一口の用意もつかまつって参った。しかしいま伺うに薩の高崎猪太郎なる者へのお言葉は、左様な事情なしということでござるゆえ、それ以上の穿鑿は致しませぬ。さてまた、勅旨、叡慮、宸翰(しんかん)などというゆゆしきものを、延臣が私意をはさみ、かるがるしく一大名の家来へ私発なさるようではもはや国は立ち申さず。幕府はいまより何事をするにおいても宸翰・御直書(おんじきしょ)を願うことなく独断にて国政をとりはからいますが、それにてよろしきや」
慶喜は間をおくべく沈黙した。宮は肩を落とし、うなだれて声もない。慶喜はそれを見つめ、やがて十分に間を置いたあと、背後に控えている春獄、宗城、久光を顧み、「この三人は、天下の愚物、天下の奸物でござる」
と、語気するどく発した。三人ああっと顔をあげた。大名の身でひとからこれほどに面罵される経験をもつに至った者は、三百年来、この場の不幸な三人以外にないであろう。
この後、ドラマでもあったように、中川宮は、薩摩から金(台所)をもらっているから、薩摩にあごで使われているのだろう、今後は一橋が台所をまかせてもらう、ということも言う。
さんざ言いたいことを言った慶喜は、膳の上に突っ伏した。
酔うつぶれた演技で、この場をお開きにした、というのは司馬遼太郎の説。
ドラマでは、慶喜は颯爽と中川宮邸を後にし、平岡などの家来たち皆と祝い酒を飲む、としていた。
「快なり!」と慶喜が盃を差し上げたのは、この時だけかもしれない。
ドラマの演出、これもありかもしれない。
慶喜の人生において、あの夜のことは、数少ない痛快な出来事だったと察する。
この大河、下敷きになってる著作は、大佛次郎 『激流 渋沢栄一の若き日』や城山三郎 『雄気堂々』 、慶喜については、『最後の将軍』も入ると思う。
史実としては、毎朝京の街を馬で駆けていた慶喜に渋沢栄一が直訴したことは確かなようだ。
そうであるならば、「晴天を衝け」の慶喜の痛快な一夜の下敷きになったのが、栄一たちによる直訴だった、という描き方は、ありえる。
とはいえ、その慶喜にとっての痛快事は、島津久光にとっては、人生初の屈辱でもあった。
この後、島津の逆襲は勢いを増してくる。
そんな時勢の中で、渋沢も翻弄されていくことになる。
今のところ、「晴天を衝け」を楽しんでいる。
しかし、日曜に「晴天を衝け」から「小吉の女房2」再放送というゴールデンリレーが今日で終わってしまったのは、残念。
勝小吉は、麟太郎の結婚の五年後に没しているが、なんとか「小吉の女房3」を期待している。
コメントありがとうございます。
なんとか、作れそうな気もするんですよね。
小吉が『夢酔独言』を書きながら、その側で優しく見つめるお信。
あるひ、小吉の元に相談事が・・・なんてね。
そして、幕末動乱期を前にしての麟太郎の周囲での出来事など、ネタはありそうです。
期待しましょう。
