春分と彼岸の謎ー神崎宣武著『旬の日本文化』より。
2021年 03月 17日
今日3月17日は、春彼岸の入りだ。
春分の日は土曜日の20日なので、休日が一日、損(?)したことになるかな。
そもそも、彼岸とか春分って、なに?
知っていそうで知らない話。

神崎宣武著『旬の日本文化』(角川ソフィア文庫)
ということで、よくお世話になる本、岡山宇佐八幡神社宮司で民俗学者、神崎宣武の『旬の日本文化』(角川文庫、平成二十一年十一月初版発行)から、引用したい。
春分と彼岸
「春分」を祝日に定めて久しい。それは「彼岸」の中日でもある。そのことに疑いをいだく人は、まずあるまい。しかし、春分と彼岸は、本来別々の行事なのである。
春分は、太陽の運行にしたがった節目である。春分・秋分、それに夏至・冬至をもって「二至二分(にしにぶん)」という。旧暦(太陰太陽暦)でも重要なセチビ(節日)であった。
昼と夜とが同じ長さであるのが春分と秋分。そのことは、いかに原始社会であろうとも周知のことであっただろう。いわゆる日時計が各地に存在したのも、春分と秋分を基準にしてのことであった。また、旧暦といえば太陰暦ととらえがちだが、農業や漁業には月の運行が大事であったが、気候をそれだけではかるわけにはいかないから、二至二分に代表される太陽暦も使用されてきたのだ。それは、太古からそうであって、太陰暦が古く、太陽暦が新しい、と短絡視するのも間違いである。
旧暦を、「太陰太陽暦」と言う理由が、よく分かる。
ということで、春分や秋分が、自然現象において、昼と夜が同じ長さの日、節目の日なのは明白。
その節日に、祭事的な要素が加わってきた歴史を著者は考察する。
春分(あるいは、秋分)を記念しての行事も当然生じた、とみるのが妥当である。
たとえば、戦前あたりまで、「日のお伴(とも)」とか「日天さまのお伴」という行事があった。春分の日に、一日外へ出て太陽を拝んで歩く。もちろん、休みながら、飲食も楽しみながら。こうすると身体が丈夫になる、という伝承があった。日の出から日没まで、「お伴」という言葉がゆかしい。そういえば、このごろは「お天道さま」という言葉も聞かなくなった。
へぇー、「日のお伴」という行事、知らなかった。
しかし、今年の春分の日は、多くのの人が太陽を拝んで歩いて欲しくないが・・・・・・。
また、この日をヒイミ(日忌み)として、仕事を休んだところも少なくなかった。そのところでは、のちに春分が祝日となる民俗的な下地があった、ということになる。
そうした春分行事が、のちに彼岸行事の発達、それへの複合とともに後退した。そして、私どもの知識の混同をまねくことになったのである。
彼岸は、仏教行事として発達をみた。各地の仏寺で彼岸会が催されてきたことは、周知のとおりである。
ちなみに、彼岸とは、仏典にいう到彼岸の略語である。生死と迷境を此岸、解脱の悟境を彼岸とする。そして、彼岸に渡るのを理想としてさまざまな浄行や修法の発達をみた。ということは、本来は日時を定めてのことではないはずなのだ。その彼岸行事を、日本では春分と秋分にふりわけた。いつのころ誰彼がそうしたのかは諸説はあろうが、どうも定かではない。
なるほど、自然現象の春分、秋分が、彼岸の行事につながっていった背景は、実はよく分かっていないんだね。
春分・秋分は、いつから祝日になったのかなどについて。
明治になって、春分の日に春季皇霊祭が新たに宮中で行われるようになった。いわゆる皇室の祖霊祭だが、春秋二季に執行されるようになったのは明治十二(1879)年からのことである。それで、国の祭日ともなったのだ。明治政府が定めた神社神道の公事化にしたがってのことに相違ない。が、そのとき、先行してあった仏教での彼岸会の風に習った、ともいえようか。
歴史的には新しいことではあるが、国が定めた行事の根拠を正確に知るのはむつかしい。とくに、明治の文明開化や軍事国家のありようは、文化的伝統と文明的改革の両面から十分な論議をつくしたとはいいがたいところがある。
なるほど、ある意味、これも神仏習合の一つか。
『東京年中行事』(若月紫蘭、明治四十四=1911年)でも、「春分と秋分に何故に彼岸の名をつけたかは、物好きな人の詮索に任す」とある。ここでも、これ以上にこだわることをしない。ただ、春分・秋分と彼岸は、本来一緒ではないのだ、ということだけを確認しておきたい。
また、彼岸は仏教行事とはいうものの、一般の人がこぞって寺社詣でをしたとはかぎらない。また、日を定めて詣でたともかぎらなかった。たとえば、『守貞漫稿』には、「江戸にては、親鸞宗の徒、東、西本願寺に参詣する人多し。他宗の輩(やから)は、参詣の所なし」とある。そののちの経緯をみても、庶民社会の実際は、寺詣でよりも墓参りが主流となっていくのである。
もっとも、寺社の彼岸会に行くのも自家の墓参りに行くのも浄行のひとつ。いずれもよし、となろうか。
まず、自然現象としての春分・秋分の節目があった。
日本には、その日に「日のお伴」という習わしがあった。
また、忌日として、休む風習のある地域もあった。
という複数の要素が背景にあるのだが、仏教の彼岸を融合した真相は、実は良く分かっていない。
昼を此岸、夜を彼岸とするなら、その距離がもっとも近くなる日に、亡き人を偲ぶ、という説明もあるようだ。
とはいえ、それも、こじつけなのだろう。
こじつけでも、そういう日があることは、悪いことではなかろう。
さて、今年の彼岸、そして、春分の日は、「日のお伴」派ではなく、「忌み日」派として、あまり外を出歩かず、自宅で静かに亡き人を偲ぶのが良いと思う。
考えると、緊急事態宣言中は、忌み日が続く、ということではないのだろうか。
しかし、このままでは効果がないから解除する、とか、もうがまんできないから解除する、というのは、忌み日としての行動自粛ができていないせいだろう。
であるなら、宣言は延長し、より強く、忌み日であることを徹底する施策を政府はとるべきだと思う。
永田町の住人たちが、もっとも、我慢が足らないように思えてしょうがない。
