志ん朝の珍しい写真、言葉で思ういろいろー「週刊現代」2/27+3/6号の「昭和の怪物」研究、より。
2021年 02月 25日
ちょうど目の前にコンビニがあったので、しばし立ち読み。
こんなシリーズがあったんだ。
週刊誌を買うのは、昨年、赤城俊夫さんの手記が掲載された「週刊文春」以来。
志ん朝は「昭和の怪物」の104人目らしい。
8ページも割いている。
合併号なので、もう一人の研究対象がいて、山村聰。こちらも、8ページ。
結構しっかりした特集で、私にとっては珍しい写真も多く、購入。
これが、最初のページの写真。

ほぼ生い立ち順に多くの写真が掲載されている。
奥さんの写真は、私は初めて見たように思う。
掲載されている内容の中で印象的な本人や周囲の人の言葉がある。
その中で、父に入門したものの、しばらく正蔵(彦六)に預けられていた時のことを次のように語っている。
どこかで読んではいると思うが、忘れていた。
「正蔵師匠には、いわゆる落語学というものを教えていただいた。落語というものは、マクラ、ダレ場、山場、サゲというのがあって、漫画でいう起承転結にあたる。おかげでものすごく頭のなかが整理できたし、噺もスラッと頭の中入った」(『Switch』'94年1月号)
正蔵の稽古が、しっかりした土台を作ったのだと、あらためて思う。
その沿革を振り返ってみると、次のような数年ごとの大きな出来事があったことを、再認識。
昭和48(1973)年 父、志ん生逝去
昭和53(1978)年 落語協会分裂(円生一門脱退)
昭和57(1982)年 兄、馬生逝去
昭和13(1938)年生まれの志ん朝が、それぞれ、35歳、40歳、44歳の時のこと。
落語界のサラブレットとか貴公子などと言われていたが、この時期に遭遇した出来事は、結構、心身ともにきつかったに違いない。
昭和53年の分裂騒動の際に、兄の強い説得で落語協会に戻った際、泣きながら出戻りの弁を語る写真もあるが、なんとも痛々しい。
もちろん、明るい(?)写真もある。
ゴルフの見事なショット
芝居の師、三木のり平との舞台の写真
住吉踊りでの雷門助六とのツーショット
などなど。
志ん朝ファンは、永久保存版だと思う。
お薦めします。
佐平次さん、教えていただきありがとうございます。
居残り会のIさんは、昨日、小里んの『明烏』をお聞きとのこと。
あのネタで思い出すのは、落語家仲間でゴルフをし、もうハーフ回ろうと誘われた志ん朝が、帰ると言うので、何か約束でもあるのかと仲間が聞くと、翌日の落語研究会の稽古をすると言う。
ネタは『明烏』。
ある先輩の噺家さんから、「志ん朝さんの『明烏』なら、もうさらう必要はないでしょう」と言われた志ん朝は、こう返した。
「私の『明烏』は〇〇兄さんのとは違うんです」
〇〇は、秘密、ということで^^
さぁ、今日は会社もバイトも休み。
では、大須の『明烏』でも聴くとしようか。
平成2(1990)年、第一回の二日目二席目。
52歳の、絶頂期とも言える一席だ。
名前がここまで出てるのに。
