山本博文著『「関ケ原」の決算書』より(8)
2020年 12月 12日

山本博文著『「関ケ原」』の決算書』
山本博文さんが亡くなる三日前まで校正に手を入れ、今年4月20日に発行された遺作、『「関ケ原」の決算書』より最終八回目。
前回は、三成と家康の板挟み状態にあった島津家が、伏見城攻めから三成の西軍として家康を戦うことを明確にし少数ながらも奮闘したことと、家康陣営の歴史の分岐点とも言える小山評定について紹介した。
本書でその動向を詳しく追っている島津家だが、伏見城攻めの後も、戦地で陣頭指揮を執る義弘(社長)は、国元にいる兄義久(会長)、そして息子の忠恒(副社長)に、再三、兵をもっと送るよう手紙を出している。
九州・四国の大名は留守居なので本来は100石に一人役、20万石ほどの長宗我部は2000人、13万石ほどの立花は1300人出せばよい。それがそれぞれ5000人、4000人という全力動員に近い軍勢を率いてきたのである。
そう考えれば、無役分を除いて50万石ほどの島津は、本来、5000人はいなければならない計算だった。それが1000人弱なのである。
元々、会長である義久は、家康に付こうとしていた。
そんな島津家の経営陣(?)の思惑の違いなどが、関ケ原後の島津家への処遇に影響してくる。
焦る島津義弘を含む西軍の目の前に、ついに家康軍が攻め込んできた。
岐阜城陥落
八月十四日には福島正則の居城である尾張清洲城に集結した正則らの東軍諸武将は、五万余の軍勢で西軍との最前線である美濃の岐阜城に対峙することなった。
岐阜城は織田信長の嫡孫秀信(三法師、13万石)の居城である。秀信は豊臣秀吉の庇護のもとで成長し、祖父信長の住んだ岐阜城主となっており、この時、二十一歳の若い部将であった。
秀吉は当初、家康に従って関東に出陣しようとしていた。しかし、名家であるだけにそれなりの行装を調えようとしているうちに出陣が遅れてしまった。そこに挙兵した三成から味方を呼びかける要請があったためそれに応じて西軍に味方することになったという経緯があった。当初、家康が「公儀」であったが、その後、三成方が「公儀」となり、美濃にまで進出してきたのであるから、それも無理のないところだろう。
そんな成り行きでありながら、秀信の領地は西上してくる東軍方に対して最前線となってしまった。意気盛んな福島正則や池田輝政が先を争って木曽川を渡河し、城に攻め掛かってきた。とても東軍の大軍を支えられるものではない。八月二十三日には本丸にまで攻め込まれ、やむなく降伏した。
織田秀信が、東軍ではなく西軍に付くことになった理由が、名家としてのメンツとして、いわば、着替えの時間がかかったからと言うのが、興味深い。
そして、ほとんど戦うことなく、岐阜城が東軍の手に渡ってしまった。
その背景には、三成が無駄に戦線を拡大して東軍との対決に出遅れ、この岐阜城を守れなかったことが、この戦いの転機となった。
まだ江戸に留まっていた家康は、岐阜城陥落の報を確認して、ようやく西上する。
さて、島津はどうなっていたのか。
義弘の元に、何度も要請していた国元からの軍勢が到着したのは、なんと、合戦の二日前の九月十三日。
義弘の重臣長寿院盛淳らが西軍の本拠、大垣城に着いたという知らせを聞いた義弘は、陣の外に飛び出し、長寿院の手を取って喜んだと記録されている。
そして、関ケ原の前哨戦でのこと。
杭瀬川の戦い
さて、いよいよ関ケ原合戦の開戦の時は近づいている。まずはその前哨戦となった戦いを見てゆこう。
九月十一日に清州に到着した徳川家康は一日休息し、十三日に岐阜城に入った。
翌十四日早朝には家康は岐阜を発つと、杭瀬川(くいせがわ)を渡って正午には美濃の赤坂という地に本陣を構えた。赤坂は、西軍の籠もる大垣城とは杭瀬川を挟んで対峙する地である。
大垣城の西軍は、家康の到着を知り、動揺した。石田三成の部将島左近などは、「家康は上杉景勝によって関東に釘付けにされているはず」と信じようとしなかったという。家康の迅速な出馬が、西軍の想定外の事態だったのである。
あの島左近が、家康の到着に動揺したという。
西軍の情報収集力が弱かったと言わざるを得ないかもしれない。
さあ、いよいよ関ケ原、ということで、戦いのこと、島津のこと、戦後の東軍、西軍それぞれの家の処遇に基づく決算についてご紹介するつもりだったが、このシリーズはこれにてお開きとしたい。
ご興味のある方は、ぜひ、山本博文さんの遺作を、実際にお読みください。
長々のお付き合い、誠にありがとうございます。
現実のコロナとの戦い、いや、コロナと戦わない無能な政府と国民との“関ケ原”は、まさにこれから正念場だ。
