山本博文著『「関ケ原」の決算書』より(6)
2020年 11月 30日

山本博文著『「関ケ原」』の決算書』
少し間が空いたが、山本博文さんが亡くなる三日前まで校正に手を入れ、今年4月20日に発行された遺作、『「関ケ原」の決算書』より六回目。
関ケ原前夜、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行からの要請により大老の一人、毛利輝元が大坂に来た。
ほぼ同じころに大坂に着いた大老、宇喜多秀家との連署で、西国の諸大名に呼び掛けたことで、多くの大名が西軍入りした。
しかし、島津家は、まだ旗色を鮮明にしていない。
検地などで世話になった三成に付くのか、内乱の仲裁をしてくれた上に、多額の金銭的な支援をしてくれた家康の東軍に付くのか・・・・・・。
ただ、どちらに味方するにしても、上方にいる島津の軍勢は義弘の周囲の者ばかりで他の大名に比べ圧倒的に少ない。
しかし、再三要請しているにもかかわらず、国元にいる兄、会長の義久や、息子で兄の娘婿でもある副社長の忠恒は、援軍を送ろうとしない。
さて、義弘はその後、どんな行動をとったのか。
このように大坂が風雲急を告げる中、伏見にあった島津義弘は七月十二日の夜半、大坂城の三奉行に覚書を送り、「伏見城の本丸と西の丸の間に在番したいと二度にわたって願ったが、納得を得られなかった。城内に在番できないのであれば、大坂に下り、秀頼様の側にいたい」と言い送った。
そして、「秀頼様の御為になることなら、あなたがたの相談次第にするつもりだと安国寺恵瓊に申した」」とも書いている。
どういうことか解説すれば、この時点で義弘は、家康から打診された伏見城の守備を三奉行の許可の上で行おうとしたようである。しかし、三奉行からすれば、島津氏を敵方に渡すことになるので、それは許可できなかった。
また義弘は、伏見城の留守居を家康に命じられた鳥居元忠らにも伏見城に入れてほしいと打診している。真意ははっきりしないが、徳川家に対して「平地では御味方はできないので、御城へ籠りたい」と要求し、鳥居からは「島津殿を御城に入れることはできません」と断られている。
そこで義弘は、「それでは、平地では御味方できないので、やむを得ずそちらへの味方はしません」と告げ、江戸の家康にもその旨を報告した書状を、井尻弥五助という者を使者として持たせた。
これに対し家康は返事を書いたが、井尻は戻る時、近江の水口で西軍方に拘束され、書状は捨てられ花押だけが残されたという(「大重平六覚書」『旧記雑録』)。書状の内容は秘匿し、しかし井尻が使者の務めを果たしたことは証明するため、花押だけが渡されたものだろう。井尻はいろいろ抗弁し、ようやく拘束は許され、伏見に戻ってきた。
もし義弘が伏見城に入城できていれば、この直後に主導権を握った三成は、義弘に自分の方に付くようにと持ちかけたろうし、義弘もそれに従って伏見城から内応していた可能性が高い。鳥居らの判断は正しかったと言えよう。義弘の行動は、あくまで御家のために「公儀」の指示に従うというもので、毛利、宇喜多、三奉行が三成方に付いてからは、三成の命令が「公儀」であったからである。
結果として西軍に与した島津家だが、以上のように、周到な事前の手続きを踏んでいる。
家康に対しては、伏見城を守るようにという命令を守るつもりだったのに、鳥居たちに断られた、という理由を明確にしておいたわけだ。
三奉行からは義弘の覚書への返信として、七月十七日付けで連署状が出されている。
内容は、家康が秀吉の遺命に背き、秀頼を見捨てて出馬したから、相談して家康と戦うこととした、義弘も秀吉の恩を忘れていないのなら、秀頼に忠節を尽くすべきだ、というもので、家康の悪事が別紙で列挙されていた。
しかし義弘には、それ以前に石田三成からの連絡があったようである。なぜなら義弘はその二日前、七月十五日付けで初めて会津の上杉景勝に次のような書状を送っているからである。
「今度、家康が、貴国へ出張したので、輝元・秀家を始め、大坂御老衆(三奉行のこと)、小西、大谷、石田が相談され、秀頼様の御為なので、家康を討つことにしました。あなたもこれに同意するはずだと聞きました。拙者も同様です。詳しくは、石田殿より申されるでしょう」
おそらく三成の依頼によって義弘は三成方に付くことを上杉に告げ、ともに秀頼様のために戦おうと勧めたのである。
板挟み状態から、西軍入りを明らかにした島津家。
ついに、戦いは始まった。
島津軍の最初の戦いは、東軍として守ることになっていたかもしれない、伏見城を西軍として攻めることだった。
七月十九日、三成方から伏見城に矢入れ(開戦の合図の矢を射ること)があった。
秀吉が天下人の城として築いた伏見城は広大で、簡単に攻め落とせる城ではない。大軍で包囲したものの、少ないながら籠城兵の頑張りもあって、なかなか落とせなかった。
この戦いに島津義弘も参加している。
七月晦日付け松井康之・有吉立行連署状に、「伏見城はたいへん堅固です。そのため手当として島津殿へ御鉄砲衆・御馬廻衆を預けておき、西軍の主力の軍勢は瀬田へ進んだということです」(『松井文庫所蔵古文書調査報告書』二ー四二一)とある。薩摩勢の人数不足が明らかだったので、毛利輝元は義弘に豊臣家の鉄砲衆や馬廻衆を加勢に付けたのである。
この間、毛利勢を中心とした主力部隊は近江の瀬田に向かった。大津城の京極忠高が家康に心を寄せていたので、これに対抗するため軍勢を瀬田まで先進させ、城を作ることにしたのである。瀬田は壬申の乱で大友皇子の近江朝廷の最期の拠点となったところで戦略上の要地である。
さて、関ケ原の前哨戦、伏見城の戦いが始まった。
この戦いや、その後の関ケ原については、次回。
