山本博文著『「関ケ原」の決算書』より(5)
2020年 11月 27日
昼は、近所にできた和食のお店に初めて行き、日替わり定食を食べてきた。
これが、なかなか美味しかったし、添加物などを使わず、素材を大事にする料理ということも気に入り、つい今夜の予約をしてきた。
さて、東京の感染者数、570人。
これまで、Go Toを強引に続けてきた際には、専門家もまだ危機的状況ではないと言っているなどと第三者を都合良く引き合いに出してきた菅政権。
しかし、今や医師会会長や政府の分科会も含め総じて、危機的状況で国が対策を施すレベルと声を揃えているのに、Go Toの札幌市と大阪市へ行く場合のみ中止、というまったく合理性のない対策から、一歩も前に進めようとしない。
まだ緊急事態宣言を出す状況ではない、というその裏付けはいったい何なのか。
このまま放っておけば、コロナ感染者のみならずそれ以外の疾病の患者へも大きな影響が出ると認識していない。
こんな、無責任な総理大臣、内閣は、かつてなかったのではないか。
さて、気分を変えて。

山本博文著『「関ケ原」』の決算書』
少し間が空いたが、山本博文さんが亡くなる三日前まで校正に手を入れ、今年4月20日に発行された遺作、『「関ケ原」の決算書』より五回目。
前回は、石田三成を通した検地のおかげで経済的基盤を強化した島津家だったが、内紛の仲介役となってくれたことや、多額の金銭的な支援などで家康への借りも増え、両者の板挟みにあったことを紹介した。
そんな状況において、会津の上杉景勝が、家康に許可を得た上で領地の橋や道路の整備をしていることが戦の準備と解釈され、家康は景勝が上洛しなければ上杉討伐に向かうが、その際、伏見城を守って欲しいと島津家の社長、義弘は依頼された。
これは、即答できる問題ではなかった。
島津にいる兄、島津家会長の義久は、家康寄りである。
しかし、義弘としては、国に内紛があったこともあり、十分な軍勢が揃わないままでは、合戦となれば西軍の大軍が押し寄せること必定の伏見城を東軍として守り通すことは難しいと思っていた。
義弘は、いわば副社長に相当する、子息の忠恒に書状を出す。
「おまえが国元に帰る時、御家の御奉公のため、わたしが朝鮮から帰って以降引きつづき在京するが、もしもの時は見捨てないだろうかと問うた時、身命の限りは見捨てませんという返事を聞いた。その気持ちに今でも相違ないならば、人数を出して誠意を示してもらえらば本望である。人数を出すのが遅れれば無駄になるので、、急いで命じてほしい」
伏見にいた薩摩の人数は合戦のための編成ではなく、いわば通常の在京の体制で、中心は義弘の家臣だけだった。どちらに荷担するにせよ、義弘には薩摩の正規の軍勢が必要だったのである。
義弘は同時に兄義久にも書状を送り、人数が足りないことを訴え、早速に義久唐方の軍勢も上方に派遣してほしいと懇願している。
ただ、救いは義弘の甥で佐土原城主の島津豊久が上方に来ていたことだった。
豊久は五月十二日、佐土原を発ち、海路で上方に至り、伏見に来ていた。その後、諸大名に暇が与えられたので大坂に下っていた。義弘は諸事、豊久と相談して事に当たった。
あらためて、当時の島津家の系図を確認。

義弘と豊久の伯父、甥は、伯父が天文四(1535)年生まれ、甥が元亀元(1570)年生まれなので、35歳差。
その年の差の開きはあっても、なかなか援軍を差し向けてくれない兄、息子の対応にやきもきしていた義弘にとっては、上方で唯一相談相手となってくれる豊久は、頼もしく思えたのだろう。
さぁ、三成と家康の対決前夜、三成側に大きな動きがあった。
家康と肩書で並ぶ五大老の一人毛利輝元が、三奉行が求めていた上洛の要請に応える動きを示したのだ。
七月十五日、輝元は三奉行の要請を受け、直ちに六万もの軍勢を率いて国元を出船し、大坂に向かった。この日、肥後熊本の加藤清正に宛てた書状には、「自分はとにかく秀頼様への忠節を遂げるつもりなので、貴殿も指図次第に上洛するように」と告げている(『松井文庫所蔵古文書調査報告書』二ー四一六)。
光成準治氏は『関ケ原前夜』で、十二日付けの三奉行書状が広島に着いたのは十五日だろうから、その日のうちに上坂に用いる船や家臣などを動かすためには、「決起に備えてあらかじ準備していた蓋然性が高い」と指摘している。あらかじめ決起を予想していたとまで言えるかどうかはわからないが、輝元が即断したことは確かである。
合戦のちょうど二か月前、輝元の毛利軍は大坂へ向かった。
同じ頃に、備前岡山城主で、やはり五大老の一人、宇喜多秀家も大坂に着いた。
二人の大老は、連署して諸大名に書状を送った。
加賀の前田利長への連署状は、次のような内容である。
「去年以来、家康が太閤様の御遺命に背かれ、起請文をほしいままに破る行動をしていることは、三奉行から申し入れられるでしょう。ことさら大老や奉行が一人ずつ相果てられるようでは、どうして秀頼様を取り立てることができるでしょうか。その段をよく考え、それぞれが相談して戦うことに決しました。御手前もおそらく同様の御考えだと思います。この節、秀頼様へ御馳走されるべきことは、言うまでもないことでしょう。御返事をお待ちしています」(『家康』中巻)
前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行も同様の連署状を送り、あわせて「内府(家康)違いの条々」と題する家康への弾劾状を作成し、諸大名に送付した。
豊臣家を支える二大老と三奉行は、ここにはっきりと家康と対決することを宣言したのである。
この連署状が、西国大名を動かした。
上洛した大名は多数にのぼり、総勢9万3700人にもなった。
主な大名は以下の通りである。
毛利輝元 安芸広島城主 112万石
宇喜多秀家 備前岡山城主 57万石
脇坂安治 淡路洲本城主 3万2千石
蜂須賀家正 阿波徳島城主 17万7千石
生駒親正 讃岐高松城主 15万石
安国寺恵瓊 伊予国内 6万石
小川祐忠 伊予今治城主 7万石
長曾我部盛親 土佐浦戸城主 22万石
小早川秀秋 筑前名島城主 35万7千石
立花宗茂 筑後柳川城主 13万石
鍋島勝茂 肥前佐賀城主 31万石
小西行長 肥後宇土城主 20万石
相良頼房 肥後人吉城主 5万石
高橋元種 日向延岡城主 5万石
伊東祐兵 日向飫肥城主 5万7千石
西軍の陣容が固まってきた。
もちろん、歴史が証明するように、西軍からは裏切り者が出る。
まだ、島津の名はない。
今回は、これにてお開き。
なのだが、この西軍の布陣を見て、もし、今日本に内戦が起きたらどうなるだろう、なんて思っていた。
然るべきリーダーが都道府県知事に政府との対戦を呼び掛けたら、結構な数を結集できるのではないか。
とはいえ、感染が危機的な状況ではない県などは、Go To指示で政府軍になるかもしれない。
国民軍と政府軍、結構均衡した戦いなのかもしれない。
しかし、政府軍には裏切り者が出るような気もする。
コロナとの戦いのはずが、今、政府と真っ当な国民との争いになっている。
そんな不幸な歴史を、十年後振り返りたくないなぁ。
