山本博文著『「関ケ原」の決算書』より(4)
2020年 11月 23日
国家的なレベルのことなのに、知事任せにしようとする意図はミエミエだ。
Go Toを始めたのが国の独断だったのだから、やめる時も、責任を持って国が考えるのが常識なのだと思うが、そういう常識が通じないのが、今の永田町。
観光地の人混みの映像を見て、がっかりするばかり。
Go Toによる直接的な感染者は少ない、などと言っているが、国が旅行しろ外食しろと言うことで、一気に日本中の緊張感が薄らいだことが感染再拡大につながったのである。その責任は重い。
Go To TravelもEatも、今の行動としても文法的にも誤りだが、Stay Homeこそが、今とるべき適切な行動であり、かつ、文法的にも正しいのである。
さて、気分を変えて。

山本博文著『「関ケ原」』の決算書』
少し間が空いたが、山本博文さんが亡くなる三日前まで校正に手を入れていた遺作、『「関ケ原」の決算書』より四回目。
前回は、島津家の微妙な立ち位置を紹介した。
検知で経済的な基盤を強化することで三成に恩義があったのだが、忠恒が重臣を斬殺するという失態を穏便に収めてくれたり、多額の金銭的な援助をしてもらうことで、家康にも大きな借りができた。
その島津家は、関ケ原までどう立ち回っていくのか。
さて、関ケ原前夜のその時、島津の行動にもかかわってくる、大きな事態が起こる。
上杉景勝の動きだ。
景勝の旧領であった越後春日山城三十万石は堀秀治に与えられていた。上杉家と確執のあったその堀家の家老堀直政(越後沼垂郡三条城主五万石)から、慶長五年(1600)二月、隣国会津で景勝が武具を集め、道や橋を作っているという報告が家康になされた。武具を集めるのはもちろん、道や橋の整備は軍勢の通行を容易にするため、戦の準備ともみなされる。
秀吉の死を聞いて慶長三年(1598)九月に急いで上洛した景勝はしばらく伏見に滞在したが、翌年七月、許可をえて帰国し、新しい領国の整備にあたっていた。これは家康に報告もしており、家康もそれを認めていた。上杉家にしてみれば領国整備として当然のことをしていただけかもしれないが、堀直政の目にはそうは映らなかった。
家康にとってみれば、堀直政の報告は、上杉討伐のための格好のネタになった。
その頃、島津家は、会長の義久に代わり、社長の義弘が伏見の屋敷にいた。
諸大名は秀頼のいる大坂にいたのだが、家康の子信吉が守る伏見城の近くに義弘がいたことが、微妙な島津家の立場を物語っている。
京の都は平穏無事だったが、上杉景勝の謀反が噂される状況となり、義弘は「とにかく薩摩から軍勢を呼び寄せなくてはならない時節だ」と忠恒に告げ、軍勢の派遣を促している。
しかし、忠恒は、自分が斬殺した重臣伊集院幸侃(こうかん)の遺児忠真(ただざね)が籠城する日向庄内に軍勢を動員しており、多大な損害を蒙っていた。
この庄内の乱を、家康は近習の山口直友を派遣して解決させた。
もし、この時、内戦がなく、忠恒が薩摩軍を動員できていれば、歴史は変わっていたかもしれない。
義弘と家康
そのような状況の中、島津義弘は四月二十七日朝、大坂城の家康を訪問した。山口直友の尽力によって庄内の乱が解決した御礼のためである。家康は義弘家臣の拝謁も許すなど歓待し、食事を出して饗応した。
家康は、上杉景勝が上洛しないので使者を遣わしたと話し、義弘にこう打診した。
「おそらく景勝は六月上旬頃には上洛するだろう。しかし、もし拒絶の返事があれば、自分が出陣しようと決めている。その場合は、貴殿に伏見城をの御留守番をお願いしたい」
義弘は、とりあえず答えた。
「御意の段は承りました。御返事は、御使者に申し上げます」
義弘にしてみれば、なかなか即答できない事柄だった。島津家にとって恩義のある石田三成は上杉家の直江兼続と昵懇である。上杉家と徳川家が相争うとなれば、どちらに付くかは即断しかねたろう。このため義弘は家康の指示は承ったことだけを言上し、正式な返事は、いずれ遣わされるであろう家康の使者に申し上げる、と回答を留保したのである。
上杉討伐は今後どうなるのか、そして、板挟みにある島津家はどう行動するのかについては、次回。
