山本博文著『「関ケ原」の決算書』より(2)
2020年 11月 17日
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亡くなる直前まで手を入れていた本
[レビュアー] 北本壮(新潮社編集者)
追悼・山本博文さん
山本博文氏
今年3月29日に63歳で亡くなった歴史学者で東大史料編纂所教授の山本博文さん。昨年ヒットした映画「決算!忠臣蔵」の原作となった『「忠臣蔵」の決算書』などの歴史エッセーで知られ、一般にも広く読まれる歴史書を多数発表してきた。その山本さんの遺作『「関ヶ原」の決算書』を担当した編集者・北本壮さんが追悼の言葉を寄せた。
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この一文で書き出すことが、まだどうしても腑に落ちない。釈然としない。悔しくてなりません。
本書の著者、東京大学史料編纂所教授、山本博文さんが三月二十九日にがんで亡くなりました。享年六十三。あまりにも――早すぎる死でした。
昨年末、『決算!忠臣蔵』という映画がヒットしました。堤真一さんとナインティナインの岡村隆史さんが出演するオールスターキャスト映画です。興行収入は十億円を突破、岡村さんは日本アカデミー賞授賞式でも話題を呼びました。
その原作が山本さんの『「忠臣蔵」の決算書』でした。「忠臣蔵」を資金面から考察するという類のない同書をもとに、監督の中村義洋さんが山本さんと綿密に打ち合わせを重ねて脚本を執筆、軽妙でありながら、義士たちの真情を描いた作品の完成となりました。
撮影現場を訪ね、各地で講演を行い、初日舞台挨拶を客席から眺めていた頃、山本さんの高揚した面持ちには病気の影などまるでありませんでした。『「忠臣蔵」の決算書』に続く本書『「関ヶ原」の決算書』の執筆が軌道に乗り始めた昨年春頃は意気軒昂といってよいくらいでした。
「お金で歴史を考えてみるというのはなかなか面白いものだねえ。発見があるよ」
いつもダンディで端然としていらっしゃるのですが、シャイな一面もある山本さんが、本書の構想を話す声には弾むような響きがありました。
(中 略)
学者としての本分を守りながら、書けるギリギリまで書こうという山本さんの端正な文章は、お人柄そのものであった気がします。
さらなる構想もありました。江戸時代の始まりを告げる「関ヶ原」の後は、「明治維新」を決算するかなと仰っていたのです。
しかし、それは叶いませんでした。本書の校正を終えた三日後、山本さんは天に召されました。最後のメールは三月二十六日十六時三十分、「ありがとう よろしく」とのみありました。
最後の最後まで仕事に注力されたお姿には感謝と畏敬の念しかありません――でも担当編集者としてはどうしても申し上げたいことがあります。
先生、もっと、お仕事をご一緒したかったです。
中略としたのは、前回の記事で引用した「はじめに」の冒頭部分。
山本さんの『「明治維新」の決算書』、読みたかったなぁ。

山本博文著『「関ケ原」』の決算書』
やはり、遺作だったか・・・・・・。
山本博文さんが亡くなる三日前まで校正に手を入れていた本、『「関ケ原」の決算書』より二回目。
数多くの著作のある中に、『島津義弘の賭け』という本があることは、前回記事で紹介した本書のプロフィール欄にある通り。
同書執筆の際の膨大な下調べの成果でもあると思うが、本書の前半においては、島津家のことが結構詳しく書かれている。
それでは、『第一章 「関ケ原」に到るまで』から、ご紹介。
1. 豊臣政権と島津氏
島津氏の石高と軍役
序章であげた関ケ原合戦の謎の一つ、なぜ島津家は敗北した西軍に付きながら領地を失わずに済んだかーその理由を知るにはまず関ケ原合戦以前の状況、特に秀吉に服属した後の島津家の状況を知る必要がある。概説しておこう。
島津家は鎌倉時代から続く名族で、代々、九州の薩摩・大隅・日向の守護を務めた。豊臣秀吉が九州侵攻を企図した頃の島津家当主は義久で、戦国大名に成長した島津家は判図を九州一円に広げ、九州最大の勢力を誇っていた。
しかし、島津家は圧倒的な兵力を擁する豊臣秀吉の軍門に降った。天正十五年(1587)五月八日、義久は秀吉の陣する薩摩川内の泰平寺に剃髪して出頭。秀吉はその結果、義久に薩摩一国を与え、次いで降伏した義久の弟義弘に大隅一国を与え、義弘の子久保に日向諸県郡を与えた。
剃髪して龍伯と名乗った義久は、人質同然の立場として上洛、京都在住となった。豊臣家の軍役は弟の務めることになり、豊臣政権下の島津氏の当主は事実上、義弘になった。
本書にも、義久、義弘などを含む次の系図が掲載されている。

島津が関ケ原で西軍に付くことになったのは、それまでのさまざまな歴史の積み重ねの結果といえる。
まず、朝鮮出兵において、こんなことがあった。
さて、文禄の役である。一万人の軍役を課せられた島津氏は、義弘が大将として名護屋(現在の佐賀県唐津市)に赴いたが、国元から軍勢を動員するのが遅れた。そのため義弘は、小姓など周囲の者だけを連れ、貸船で朝鮮に渡ることとなってしまった。義弘はこの醜態を「日本一の遅陣」と称し、懺悔の念にかられるとともに、このままでは豊臣政権下で生きていくことはできないと痛感する。
しかも運の悪いことに義弘の子久保が朝鮮で病没する。このため久保の弟、忠恒が兄の妻でだった義久の娘と結婚し、跡取りとなった。
この時点で島津グループは、当主の義久が会長として京都にあり、弟で社長の義弘が実質、グループを切り盛り、会長の娘婿で社長の息子である忠恒を後継者に据えた、というわけである。しかし、現在の会社と違うのは、義久、義弘がそれぞれ家臣を持っていたことで、いわば会長の派閥と社長の派閥がはっきりと存在したのだ。
島津グループ、会長、社長といった表現が、なんとも可笑しいのだが、「決算書」をテーマとする本なので、むべなるかな。
この“派閥”の抗争が、その後、関ケ原における島津家の行動に大いに影響を与えることになる。
社長の義弘は、秀吉への陳情の取り次ぎ窓口であつ石田三成に、検地を行うよう依頼した。
島地家の経済的な基盤を強化するための政策だった。
しかし、会長の義久は、検地に難色を示した。
三成は秀吉の要求する軍役を、島津家が果たせる経済基盤を作るため検地は必要との立場。三成を後ろ盾として、義弘は島津家重臣の伊集院幸侃(こうかん)とともに検地を断行することとした。
文禄三年(1594)九月十四日、三成の家臣が奉行を務める検地が始まり、翌年六月二十九日には終了した。この検地により、二十二万二五に五石だった島津氏の領地高は、五十六万九五三三石にまで増加した。およそ、2.6倍にもなったわけだが、秀吉自身が会津の蒲生領検地の時、「上方で検地を行っても、五割や三割は領地が増加する」(『島津家文書』二ー九五八)と言明している。検地を行えばこれまで把握できていなかった耕地が把握でき、領地高が倍増することも珍しくないのである。
この成果の上に立って秀吉は、義久と義弘にそれまで二万七千石と一万ニ千石だった彼らの蔵入地を十万石ずつに設定することを指示し、これを無役とした。そして、家臣の知行はそのまま十四万一二二五石とし、増加した十二万五三〇八石を加増分として設定した。家臣が規定以上の軍役を務めたり、軍功をあげたりした際の褒美用である。家臣のモチベーションをあげようとしたのである。
義久と義弘によって、無役での十万石の蔵入地からの収入は、毎年四十八憶円にも相当するとのこと。
それは、戦争になった際の、兵糧調達などに使用することができる。
こうして、検地により、島津家の経済基盤は大幅に改善された。
島津が、秀吉、そして、三成に恩義を感じる理由の一つが、この検地だった。
さて、関ケ原において、島津氏の動向は、結構重要。
果たして、会長の娘婿で社長の息子忠恒(ただつね、その後の家久)は、優秀だったのかどうか。
次回も、島津家のその後についてご紹介したい。
それにしても、忠臣蔵、関ケ原、そして明治維新と続くはずだった山本さんの「決算書シリーズ」が途切れたことが、残念でならない。
