佐木隆三著『身分帳』より(8)
2020年 09月 07日

佐木隆三著『身分帳』
佐木隆三の『身分帳』から、八回目。
第二の人生を始めた山川一だが、十三年ぶりの塀の外の暮らしは、そう生易しいものではなかった。
高血圧で体調も悪く鬱屈している時に思い出したのは、仙台刑務所で一緒だった“マチュアキ”のこと。
電話すると、すご来い、と懐かしい声。
しかし、彼の住む小倉に出向いたものの、マチュアキは、いろいろあって家を留守にしている。
彼の妻から、マチュアキが直接渡したかっただろうという現金の入った封筒を受け取り、生まれ故郷の博多に向かう。
前回紹介した最後の部分を、あらためて。
博多駅の西方にあった竜華孤児院は、今は県立の精神薄弱児施設である。以前に二度ほど訪ねているから、駅前のバスターミナルで路線図を確かめて乗った。
最初に行ったのは四十一年で、福岡市でキャバレー勤めの頃だ。マイクロバスを運転していたから、仕事のない昼間に行ってみた。次は四十七年で、佐世保刑務所を出て同じキャバレーに復職してまもなくだった。二十四歳と三十一歳のときで、二回とも門前で建物を眺めただけで帰った。
「こんどは違う。自分のルーツを探る」
山川は、施設の記録に母親の住所氏名があり、戸籍に辿り着けることを祈り、かつて孤児院だった施設を訪れた。
施設の受付には誰もいなかったが、パンフレットがあり、こう書かれていた。
当園は、福岡市博多区にあります萬行寺住職が古くから経営されていた「竜華孤児院」の土地建物等を、昭和二十二年一月に恩賜財団同胞援護会に寄付されたので、同年二月から福岡県立の施設となり、二十三年一月に近隣の浮浪児一時保護所も県に移管されて合併したものです。
この後に、定員数や施設の面積、建物構造などが記されていた。
以前は、近くまで来たものに、外から眺めるだけだった山川。
初めて館内に入り、その施設の沿革を確認した。
『身分帳』には、「昭和二十年末ころ終戦直後の社会混乱の中で母親が生活事情から本人を孤児院に預けて音信を絶ち、近くの進駐軍キャンプ兵舎のアメリカ軍将校宅に里子として引き取られて約二年間を過ごし、二十三年十二月ころ将校家族とともに神戸市へ移った」とある。
パンフレットと自分の記憶とも付き合わせてみた。
二十年十二月=竜華孤児院に預けられた。
二十一年十二月=アメリカ軍人の里子になる。
二十二年一月=萬行寺が施設を同胞援護会に寄贈。
二十二年二月=施設の経営が県に移管される。
二十三年十二月=アメリカ軍人と神戸市へ移る。
四歳半のとき預けられ、五歳半でキャンプのアメリカ軍将校に引き取られている。その翌月、萬行寺が孤児院を公的な財団に寄贈して県立施設になった。
「ここに入る前、どこに居たのか?」
四歳から五歳という時期、山川一が送った日々を、どう表現したらよいのだろう。
これこそ“自分探し”の旅というべきか。
引用を続ける。
独りごちてボールペンで印を付けていると、背後から男の声がした。
「どちら様でしょうか?」
開襟シャツの胸に施設のマークが入っており、六十年輩の職員である。
「お尋ねしたいことがあります。孤児院当時に世話になった者でして、自分に関する記録を見せてもらいたいと思って来ました」
率直に用件を伝えたら、相手は困惑したような表情を見せた。
「そりゃ古い話ですなぁ。どげんなもんでっしょや」
「当時の記録が、当然あると思いますが?」
「孤児院当時のもには、まったくないですなぁ」
「ここは公立の施設でしょう? 記録は残しておくべきだし、古参の職員の方ならわかるんじゃないですか」
「私が最古参ですバッテン、竜華孤児院の頃のことは、直接は何も知らんですもんねぇ。間違いなく、ここに居られた?」
疑うような目を向けられ、たちまち体が熱くなった。四十年前に田村明義の名で収容されたことは、まぎれもない事実なのだ。
「あのですね・・・・・・」
抗議するつもりで切り出したら、職員はズック靴を脱ぎ、スリッパを二足揃えた。
「とにかく上がらんですか。冷たいものでも召し上がって行きなっせ」
「済みません」
親切に迎えてくれたのに、何を勘違いしていたのかと自分を叱りつけたい気がした。こういうとき大声を出すのは簡単だが、鬱憤晴らしで終わるだけだ。
もう少しのところで、短気な悪い癖が出そうなところを、堪えることができた。
果たして、山川一は、田村明義として預けられた記録を、探し出すことができるのだろうか。
竜華孤児院で検索して、ある学校の発行物に、その沿革などが紹介されているのを発見。
浄土真宗系の筑紫女学園のサイトに、同学園報の「法海」というコラムページが紹介されている。2011年発行の号で、「博多萬行寺と龍華孤児院」というテーマで、孤児院設立の由来などとともに、大正期の同孤児院の写真がある。執筆者は、当時の同学園高石史人教授。
筑紫女学園サイトの該当ページ

これが、大正期の孤児院の写真。
文章も少し引用する。
この福岡の地で近代慈善事業の起点と成すのは、博多の浄土真宗本願寺派萬行寺の住職であった七里順之師が創設した「龍華孤児院」という育児施設です。高僧の誉れ高かった父恒順師の遺志を継いで、寺内にあった学寮を院舎に充てて、三陸大津波から少し後の1899(明治32)年7月に開院されています。その開始当時の入所児は9名ほどですが、同じ年、産炭地筑豊の田川郡で起きた豊国炭鉱でのガス爆発事故の犠牲者(死者210人)たちの遺孤児4名がその中には含まれています。
この後、孤児院設立の趣意書の内容が紹介されている。
このコラムは、3.11のことから始まり、過去の三陸大津波、濃尾地震などの震災と震災孤児へのキリスト教系や仏教系の慈善活動の紹介となり、萬行寺と竜華孤児院へとつながっている。
3.11から、来年で十年か。
多くの震災孤児たちは、今、どんな環境で、どんな生活をしているのか・・・・・・。
そんなことも思いながら、今回はお開き。
