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佐木隆三著『身分帳』より(7)

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佐木隆三著『身分帳』

 佐木隆三の『身分帳』から、七回目。

 これまでの記事で、主人公の山川一が、十三年間の塀の中の生活から満期出所し、引受人である東京の人権派弁護士の事務所で、奥さん手作りの雑煮の美味さに胸を熱くする部分までを、彼の少年期の経歴や妻久美子との関係などを振り返りながら紹介してきた。

 さて、弁護士事務所を出て住民登録のために行った葛飾区役所でのこと。

 国電を上野で乗り換え、京成電鉄のお花茶屋で降りて区役所へ行った。昭和四十八年の春に住民登録をしたのは、普通乗用車の運転免許を書き換えるためで、その次に婚姻届を提出している。
「なるべく、君自身でやりなさい」
「そうしてみます」
 弁護士の配慮が嬉しく、一人で住民課の窓口に進み出て、興奮を押さえて事情を話した。
「間違いなく登録していましたか?」
「こういう事情で・・・・・・」
 窓口で「保護カード」を見せると、三十歳ぐらいの男子職員が古い記録を当たってくれた。
「どなたかと同居していましたか?」
「久美子という妻が居て、後に協議離婚しました」
「現在は別居ですね?」
「勿論そうです」
 カウンターで身を乗り出したとき、袖口から手首の傷跡が露出した。東京拘置所で戒具の針金で血管を切った跡は、毛虫でも這っているように癒着して真冬には痛んだ。しかし、数年前から何でもなくなった。
「見つかりました。これが当時の台帳です」

 保護カードとは、刑務所が出所時に更生保護施設の援助を受けられるように発行するカードだ。
 山川が、職員にそのカードを出す時の心境はどんなものだっただろう。
 「私は前科者です」と言っているに等しいのである。

 次に、弁護士が住民登録をしている区役所へ行き、同じ住居表示で手続きをした。その際も、保護カードを職員に見せる必要があった。
 しかし、その後に行った福祉事務所では、弁護士の知人の区会議員による根回しでスムーズに手続きが済み、多くを説明する必要はなかったとのこと。議員も、そういう弱者を助けるような人たちばかりなら、この国はもう少し良くなると思うのだが。
 予定していた、第二の人生を送るための手続きが終わった。

「では、帰ろう」
 表通りに出てタクシーに手を上げながら、弁護士が苦笑した。
「福祉の世話になるからといって、卑屈になることはないんだよ。国民の生存権だからね」
「まさか生活保護を受けるようとは、思ってもみませんでした」
「やはり気になる?」
「肩身が狭くないだけ、懲役のほうが気が楽です」
「そりゃないだろう」
 弁護士が声を立てて笑い、タクシーに乗り込んだ。

 弁護士の家では、奥さんがスキヤキを用意して待っていた。
 テレビでは、中国残留孤児のニュースを放送していた。
 弁護士から、どう思うかを問われた山川。

「この人たちは、つまり親から売られ、捨てられたんでしょう?」
「連れて逃げれば危険がともなうから、心を鬼にして中国人に預けたんだよ」
 たしなめるような口振りだが、臆さずに答えた。
「それは親の逃げ口上じゃないですか。いっそ死ぬなら死ぬで、親子一緒のほうが幸せです。犬や猫じゃあるまいし、親の都合で置き去りにされたんです。でも孤児たちは、肉親を慕って日本にやって来る。ラジオや新聞で知っておりますが、他人事とは思えません」
「山川君にとっては、まさに他人事じゃないな」
「自分だって親を恨んできました。しかしやっぱり、おふくろには会いたいです。生きていれば、七十前後でしょうか・・・・・・。会って顔を見たいし、死んでしまったのなら、墓石を自分の手で撫でたいです」
「その気持ちはわかる」
「おふくろが居たから、自分はこの世に生まれました。社会の吹き溜まりで極道になったと知れば、おふくろは嘆くかもしれない。しかし自分は、ありのままの姿を見せたいと思います」
「極道というが、これからは犯罪とは無縁に生きるんだろう?」
「はい、約束は守ります」
 画面は変わって、昨年の四月から十月にかけて全国の学校で“いじめ”が十五万五千件発生したという。しかし、チカチカする映像と高い音声で煩わしかった。
「では食べるとするか」
「頂きます」
 合掌して箸を持ったが、あまり食べられなかった。

 幼い頃に棄てられ、孤児院で生活した山川の、中国残留孤児への思いは、たしかに他人事ではなかっただろう。


 肩身の狭い思いはしながらも生活保護を受けることになり、アパート暮らしが始まる。
 
 行動範囲は広いとは言えないが、久しぶりに、塀の外の人たちとの交流が始まった。

 持病の高血圧にも苦しみながらの四十を過ぎた浦島太郎の日々は、安閑としたものではなかった。

 近所の小さなスーパーを経営する町会長は、山川を叱ることもあるが、重要な相談相手。
 ケースワーカーは、時々様子を見に山川を訪ねる。お客所的な冷たい印象を与える場合もあるが、それもやむを得ないのだろう。
 同じアパートに住むコピーライターは、山川の話を聞き興味を抱き、知り合いのジャーナリストを紹介しようとしたが、そのアパートを根城とする新聞拡張員とのいざこざで山川の怖さを目の当たりにし、アパートから消えた。
 自活のために重要な運転免許は、なかなか取れない。
 近所のアパートの住人が夜中もうるさくて眠れず、大家に電話して注意したら、その大家が町会長に苦情を言うなど、鬱鬱とした日々が続く。

 本書では、さまざまな出来事の合間に、過去の裁判記録や、山川自作の歌などが挟まれる。

 「学習ノート」に、次のような歌が記録されている。

  青江三奈の唄がラジオに流れきて無頼の過去に心疼きぬ
  しみじみと美空ひばりの唄を聞く懲罰ありし昼のラジオ
  人は皆家あり妻あり子供あり我に家無く有るは前科のみ
  恩赦でぬかと天皇の歳かぞえ
  何党が天下取るろうがムショ暮らし
  凍傷の手で貼る今日の袋かな

 久しぶりの塀の外での生活。
 自分自身は、相当自制しているつもりでも、その言動や行動に、周囲は「やはり、前科者・・・・・・」という目を向けていることは、ひしひしと感じていたことだろう。
 鬱と高血圧で、心身共に疲れた時、つい、塀の中でに生活を思い出していたのかもしれない。

 そういう日々の中で、山川は、刑務所仲間のある男のことを思い出す。
 
 下稲葉雅明は同い年で、仙台で別れたとき三十六歳だった。互いに四十五歳になって、九年ぶりの再会になる。二十前か同じ組の若い衆で、京都の撮影所で一緒に仕事をした。下稲葉は筑豊の出身だから、同じ福岡生まれということで仲が良かった。

 その下稲葉、愛称マチュアキに、山川は“貸し”があった。

 宮城刑務所の洋裁工場で、下稲葉は班長をしていた。覚醒剤で懲役七年は重刑であり、早く出所しなければならない事情があった。だから模範囚になって、早期の仮釈放を期待していたのだ。班長の下で六十人余りが作業して、能率が上がれば累進処遇の評価は高まる。
 山川は洋裁工場に配属され、京都では弟分だった下稲葉の配下になり、得意の洋裁技術を発揮した。十二歳で送られた宇治初等少年院で、農耕作業がつらいからミシン踏みに精出して上達したのだ。しかし、班長に点数を稼がせたくない者もいる。洋服の仕上げで糸切りを担当する懲役が、ことさら手抜きをして困らせていた。最後の班長点検で注意すると、ニヤリと笑ってやり直す。とうとう下稲葉が、ハサミを手に低く身構えた。腹部を刺せば追刑が重くなるから、とっさの判断で山川がハサミを取り上げ、糸切り担当の耳を切りつけたのだ。
 この同囚暴行が、五十二年一月十四日午前十一時過ぎのことだった。山川は鎮静房に入れられ、二月九日に懲罰五十日の言い渡しがあり、懲罰房から出ると仙台地検が傷害罪で起訴した。六月七日が第一回公判で、次の六月十七日の公判で懲役六月を求刑、六月二十八日の仙台地検判決は懲役三月だった。
 三ヵ月は“ションベン刑”と呼ばれ、追加されても痛痒は感じない。呑気に構えていたら、旭川移監が待っていたのだ。

 マチャアキに電話すると、本人が出て、すぐ遊びに来い、とのこと。

 山川は、九州小倉に向かった。

 マチャアキは、堅気になったわけではなく、その時も、揉め事のため、ほとんど家を留守にしていた。
 
「いったい何で、こげん長引いておるですか。身内の揉め事でっしょ?」
「それは聞かんでつかっせ。お互いのためです」
「姐さんが“聞くな”と言われるのなら、ムリには聞きません」
「そげん気を悪うせんで、散歩でもして来たらどげんです?」
「・・・・・・」
「生まれ故郷の博多へ行ってみたいと、あれほど言うておったじゃなかですか。高橋でも付けて案内させるつもりでしたが、これじゃ何時になるかわかりません」
 さっそく箪笥の引き出しから祝儀袋を取り出し、恭しく差し出すようにした。
「主人が渡すつもりでおりましたが、どうか収めて下さい」
「有り難うございます」
 素直に受け取ったら、指先の感触でかなり入っていることがわかる。
「お取込みのときに、済まんことです」
「クルマで案内できないのは残念やけど、新幹線やったら博多まで二十分ちょっとやけんね。日帰りも出来るバッテン、何なら泊まってきてもよかですよ」
「さっそく行ってみます」
 居ると邪魔になる事情もあるようだから、言われた通り出掛けることにした。
 博多駅の西方にあった竜華孤児院は、今は県立の精神薄弱児施設である。以前に二度ほど訪ねているから、駅前のバスターミナルで路線図を確かめて乗った。
 最初に行ったのは四十一年で、福岡市でキャバレー勤めの頃だ。マイクロバスを運転していたから、仕事のない昼間に行ってみた。次は四十七年で、佐世保刑務所を出て同じキャバレーに復職してまもなくだった。二十四歳と三十一歳のときで、二回とも門前で建物を眺めただけで帰った。
「こんどは違う。自分のルーツを探る」

 終生抱き続けてきた母への憧憬。

 会いたい、もし亡くなっていたのなら、墓石を撫でたいという思いは、果たされるのだろうか。

 ルーツを探る旅のことは、次回ご紹介。

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by kogotokoubei | 2020-09-02 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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