雲助と「アスビ人」のこと。
2020年 08月 24日

今回は、吉原の思い出のこと。
とはいえ、昭和33年3月31日は、雲助はまだ十歳で、間に合っていない。
しかし、そこは芸熱心な雲助、廓噺の勉強(?)のために諦めずに通ったのである。
かつて大見世と呼ばれた旅館に泊まるようになりました。玄関脇の窓からお客を呼ぶおばさんとも親しくなりお金のない時には負け家もらって泊まりました。
勉強家でしょう^^
もっともその時は一階に並んでいる廻し部屋の一番奥にある座布団部屋でしたが、翌朝帰りがけには小梅三粒くらいに少し砂糖をかけたのをお茶に添えて出してくれたのがいかにも吉原の見世らしく思えました。
『明烏』の科白、「朝の甘味はオツだねぇ」なんて科白は、こういう努力があってこそ、生命を宿すのである!
雲助も、周囲にいた「アスビ人」を気取っていたのかもしれない。
雲助と吉原、となると、ある人を思い出す。
以前著書『吉原酔狂ぐらし』を紹介した、吉村平吉さんだ。愛称は、平さん。
2014年6月7日のブログ
野坂昭如の『エロ事師たち』のモデルになった人。
居残り会のリーダー佐平次さんのブログで知った本。
佐平次さんは、ご一緒した深川の落語会開演前に、私も立ち寄っていた古書店で文庫を入手なさったのだが、後日、私は神保町で発見(?)できず、珍しく、ネットで入手した。
この本を紹介した記事のコメントでも佐平次さんとやりとりしたのだが、平さんが足繁く通った店に、そのうち行きましょうと言っていたのだ。
そうこうしているうちに、お目当てのお店が、どんどん消えていく。
三ノ輪の中里、行きたかったなぁ。
「間に合わなかった」、という後悔ばかり。
同じような、思いを抱いている人が他にもいた。
三年前の文春オンラインに、2017年3月号の文春の記事が載っており、平さんのことや、かいば屋の熊さんのことが掲載されている。
文春オンラインの該当記事
ノンフィクションライター小野一光によるものだ。
引用する。
元祖風俗ライターが棲んだ街 #1
50年後のずばり東京――浅草吉原遊郭街には酔狂な「アスビ人」が集っていた
小野 一光
「そういえば吉原の『正直ビヤホール』ですけど、たしか今日で閉店らしいですよ」
2016年12月中旬、性産業についてのシンポジウムが開かれ、その二次会で知り合ったカメラマンがふと口にした。私がいま、吉原や浅草に深く関係した“とある人物”の立ち寄り先を取材していることを話したところ、教えてくれたのだ。同店はもともと吉原の「正直楼」という遊郭があった場所にあり、1958年まで続いた赤線時代から営業していた老舗である。
また間に合わなかったか……。
自分の行動の遅れを悔やんだが、時すでに遅しである。
その2週間前にも、私は吉原からさほど離れていない、東京メトロ日比谷線三ノ輪駅近くにある居酒屋の前で、立ちすくんだばかりだった。
〈お知らせ 永年に渡り、皆様方に大変ご贔屓いただきましたが、誠に勝手乍ら十月三十一日(月)をもちまして閉店させていただきます。永年のご愛顧に心より感謝と共に厚く御礼申し上げます。大衆酒場中里〉
引き戸に貼られた紙に書かれた「永年」という文字の脇には、誰かの手で「七十年」と書き添えられていた。私が聞き及ぶ限り、この店は50年創業であるため、正確には66年ということになるが、それはどうでもいい。紛れもなく「永年」続いた老舗がその歴史に幕を閉じ、そこにわずかな差で、間に合わなかったのだ。
元祖風俗ライターの死
この2軒の店に通っていた“とある人物”の名は、吉村平吉という。1920年8月に東京・赤坂で書画骨董商の息子として生まれた彼は、05年3月、吉原に隣接する台東区竜泉の自宅アパートで死去した。享年84。当時、吉村の死を報じるメディアが使った肩書きは「元祖風俗ライター」だった。
奇しくも生前に憧憬を口にしていた永井荷風と同じく、彼の遺体は独り暮らしの部屋で発見された。息を引き取ってから数日後のことだ。そんな吉村が最後に立ち寄った店こそが、前述の「中里」である。
その死に様から「孤独死」と受け取られるかもしれないが、実態は異なる。吉村が生涯の住処と選んだ、吉原を含む浅草の人々は、誰もが彼に優しい目を向け、親しみを込めてこう呼んでいた。
平さん――。
この文には、もう一人、主役がいる。
熊さん、だ。
♯2の記事より。
文春オンラインの該当記事
平さんと熊さん
現在でこそ、外国人観光客の増加や、浅草寺西側の通称「ホッピー通り」の人気で、週末には賑わいを見せるようになった浅草だが、吉村がエノケン一座と出会って間もない37年の浅草六区の写真を見ると、左右に派手な看板の劇場が建ち並び、その間は立錐の余地がないほど人波で溢れている。当時の賑わいは現在の比ではなく、戦前は紛れもなく日本一の歓楽街だった。
その浅草六区も、64年の東京オリンピック以降は人通りが年々減り、それまでにあった映画館や劇場が悉く閉鎖されていった。日が暮れると暗く静まり返る閑散とした状況が続き、それはまさに「時代に取り残された街」の様相を呈していた。
一方で、すっかり黄昏れ、客足の遠のいた浅草に魅力を感じ、ことあるごとに足を運ぶようになった“変った種族”もいた。
彼らのことを語る前に、もう1人の人物についても説明しておかなければならない。その人物の名は熊谷幸吉(本名:光吉)。34年12月に東京・錦糸町で宮大工の息子として生まれた熊谷の、最終的な肩書きは「かいば屋」店主。この店は浅草寺の裏を東西に走る言問通りよりもさらに北側、猿之助横丁と呼ばれる路地にあった小さな居酒屋である。店の名付け親は野坂昭如。売り上げでせっせと馬券を買って、競走馬の飼料に献ずるとの意で付けられた。
熊谷は早稲田大学文学部に入学後、落語研究会に入ったことで、1歳年上であるのちの講談社編集者、前出の大村と友人になる。やがて父親が亡くなったことで大学を中退。屋台のラーメン屋などを経て、築地の青果市場で働く。さらにカーペットのセールスマンなどを経験したのち、75年に「かいば屋」を開店した。彼を知る人々は、親しみを込めてこう呼ぶ。熊さん――。
そう、浅草には「平さん」もいれば、「熊さん」もいたのである。

五街道雲助著『雲助、悪名一代』
かいば屋の熊さんについては、『雲助、悪名一代』から紹介したことがある。重複するが、少しだけ。
2013年11月21日のブログ
かいば屋で、おやっさんを通して、いろんな人と知り合いました。
早稲田大学を中退したおやっさんは野坂昭如さんの食客をしており、『かいば屋』という店名は、おやっさんの競馬好きにちなんで野坂さんがつけたそうです。
のれんを新しくしたときに、『かいば屋』の字を書いたのは、殿山泰司(1915~1989)さん。
田中小実昌さんも、もちろん常連です。
おやっさんは野坂さんの『酔狂連』という文化サークルのメンバーでもありましたから、そういった人たちが、かいば屋に出入りしていました。
「酔狂連」、「アスビ人」サークルの名として、相応しい。
浅草に限らず、日本各地から「アスビ人」が、どんどんいなくなり、彼らが屯する場所も、消えていく。
かつての若者にとって、彼らアスビ人や、通っていた店から学べることは、いろいろあったはずだ。
志ん生の「こんなこと、学校じゃ教えない」という言葉は、結構、重要なことを言い得ている。
雲助には、馬生以外にも、たくさんの師匠がいた。
平さんも熊さんも、そして、小梅三粒に砂糖をまぶして出してくれたその人も、師匠だったに違いない。
知っていて間に合わないのが、一番悔しいですね。
それは、噺家さんの高座も然り。
コロナ禍は、そういう後悔をさらに増やしつつある。
なんとか、一軒でも、一人でも間に合うよう僥倖を祈るばかりです。
愚かにも「かいば屋」という店名を誤解していました。
好みの酒肴で酒を飲む客の姿は、馬のかいばを喰う姿に相当・・・
ではなかったんですね、競馬ですかそうですか(汗)
コピーライター野坂昭如の面目躍如でしょう。
熊さんと通しての「酔狂連」との交流、雲助にとっては大きな財産になったことでしょう。
東京新聞の連載、今朝が最終10回目でした。
地元本所の変貌ぶりなどで締めくくられています。
当たり前ですが、本に比べると、物足りない。
この連載で雲助に関心を持った方は、あの本を読んで欲しいと思います。
浅草も新宿も、もっと詳しく書かれていますからね。
