8月15日、「禁演落語」のコラムから思う、いろいろ。
2020年 08月 16日
11時から15時近くまでは、お客さんが途切れず、ご家族連れの方も多くて、私と、私の五歳上七十歳のKさんと二人で、休憩なしの忙しさだった。
16時でKさんも帰り、次第にお客さんも減ってきた時間帯は、2時間ワンオペ。
事前のシフト希望で8月15日に「×」が並び、今年は連れ合いの実家の越後に行くこともないので引き受けたものの、結構、きつかった。
帰宅し、連れ合いと犬の散歩、そして、冷たいビールからワインを飲みながらの夕食の後は、とてもブログを書く状態ではなかった(^^)
ということで、敗戦記念日の新聞のコラムに関わる記事を、遅ればせながら。
8月15日の朝日「天声人語」は、また(?)落語がテーマ。
「日本の陸海空軍の鮮やかな活躍ぶりは偉いもんでやすな。米英もあきまへんわ。アカンベーエー(米英)」。大戦末期、寄席ではそんな落語が演じられた。面白くないのを通り越して痛々しい▶国策落語と呼ばれる。統制色が濃くなった時代、軍部から要請されて当時の作家らが作り上げた。「出征祝」「防空演習」「締めろ銃後」。演目を挙げればキリがない▶その歴史を丹念に調べたのは、『国策落語はこうして作られ消えた』の著者、柏木新さん(72)。「当時の思想動員の一つ。大衆に人気の落語に軍部が目をつけ、落語界も忖度して協力しました」
後半は、「禁演落語」のこと。本法寺の「はなし塚」のことも書かれている。
禁演とされた作品の台本や扇子がここに埋められた。境内を訪ねると、碑文には「葬られたる名作を弔い」と刻まれている。「本意ではないが、お上には逆らいがたい」。落語家の無念がそこに見て取れた▶終戦から今日は75年。権力の側が「要請」という名の功名な圧力をかけ、国民の側はじわじわと「自粛」の連鎖へ追い込まれる。危うい構図は戦中も今も変わらない。落語界に限らず、教育や文化、報道までが挙国一致の大波にのみ込まれた愚を繰り返してはならないと誓う。
先日、「饅頭怖い」に関する「天声人語」について記事を書いた。
2020年8月5日のブログ
あの話ほど散漫ではないが、8月15日のコラムとしては、もっと書きようがあったのではないだろうか。
「要請」という圧力と「自粛」の連鎖・・・戦時下とコロナ禍とでの同じ危うい構図という着眼点なのだろうが、やや無理を感じる。
ちなみに、毎日の「余録」は、こんな内容だった。
毎日新聞の該当コラム
余録
「思わざる失態」を演じるな…
毎日新聞2020年8月15日 東京朝刊
「思わざる失態」を演じるな――
終戦の5日後、憲兵隊司令部から各部隊に注意を促す通達がなされた。終戦前日に命じた文書焼却についての念押しで、それが実に微(び)に入(い)り細(さい)をうがっているのがすごい▲引き出しの奥にはりついた文書はないか。棚の奥に落ちたもの、焼却物の焼け残りや周囲への散乱、私物の本へはさんだものはないか……箇(か)条(じょう)書(が)きで点検を求め、なかには「机の動揺止めの為(ため)脚下等に挟みたるもの」まで挙げている▲終戦時の文書焼却は軍だけでなく、内務省、外務省などでも行われ、市町村の書類にも及んだ。内務省の焼却は三日三晩に及び、外務省は8000冊を焼いたという。明治国家は軍人や役人の戦争責任を煙に変えた炎とともに滅んだ▲コロナ禍という世界的試練の中で迎える終戦から75年の節目である。行政文書による記録を義務づける「歴史的緊急事態」に指定されたコロナ対応だが、果たして後日の検証や将来の感染症対策に資する記録がなされているだろうか▲疑うのは、今の政府の公文書管理のでたらめを見てきたからである。さらに振り返れば、外国の文書公開で自国の密約外交を知った日本の「戦後」だった。75年を経ても、日本人はその事績を公文書で検証できる政府を築けないのか▲途方もない無責任の連鎖が引き起こした先の戦争であった。その内外の戦没者の魂を鎮める日、どんな為政者も官吏も、いつか必ず文書で立証される歴史の法廷に立ってもらう民主政治の原則を心に刻みたい。
情報公開法ができた結果、議事録を残さない会議が増えた、という国。
そういった隠蔽体質を的確に批判しているように思う。
紹介した天声人語が、落語が好きな書き手によるものだろうことは想像できるし、そのこと自体は、嬉しくもある。
しかし、8月15日に禁演落語に関して書くのなら、コロナ禍の「要請」と「自粛」は持ち出す必要はなく、戦争にのみ焦点を当てた方が良かったのではなかろうか。
「積極的平和主義」という、なんとも不思議な日本語を使っても良かったように思う。
拙ブログで、禁演落語について何度か書いている。
その五十三のネタを含めて紹介したのは、次の記事。
2015年2月12日のブログ

小島貞二編著『禁演落語』(ちくま文庫)
この小島貞二さんの本から、たとえば、アンツルさんと正岡容との関係について書いたことがある。
2016年2月1日のブログ
この本から、あらためで紹介したい。
たしかに、五十三もの噺を葬ったのは、「自粛」では、あった。
その動きは、開戦前から始まった。
“開口一番「禁演落語」とは?”から。
昭和十五年(1940)は、太平洋戦争の始まる前の年で、日本は駆け足で戦争を急いでいた。折りから“紀元二千六百年”というので、十一月十日、十一日の両日、宮城外苑で奉祝会が行われ、式場では野戦料理が供され、天皇もそれを食べたというので参列者の感激は大きかった。
当日は「祝え元気に明らかに」の立て札があったのに、終った途端「祝い終った さあ働こう!」とポスターが替った。それよりやけに目についたのは「ぜいたくは敵だ!」の大立て看板だった。
紀元二千六百年の奉祝会などは、もはや落語『代書屋』でしか耳にしなくなったように思う。
「ぜいたくは敵だ!」のスローガンが、まさに、自粛圧力となったわけだ。
芸能界では、三月二十八日の内務省の命令で、「敵性語の芸名は改名せよ」となり、漫才のミス・ワカナは「玉松ワカナ」に、千太、万吉のリーガルは「柳家」に、香島ラッキー、御園セブンは「香島楽貴」「矢代世文」に改めるなど混乱した。歌手のディック・ミネ、俳優の藤原釜足まで槍玉に上り、結局十六人が改名を余儀なくされたが、落語家はいなかった。
ミス・ワカナといえば、もう十年前になるが、同じ小島貞二さんの本から、「わらわし隊」について書いてことがある。
2010年8月11日のブログ
昭和二十一年、三十六歳でヒロポン中毒で亡くなったワカナは、私は、広い意味での戦死ではないかと思っている。
引用の続き。
改名は何も芸名だけではない。タバコもゴールデンバッドは「金鵄」に、チェリーは「桜」になった。東京朝日新聞と大阪日新聞が合併して「朝日新聞」になったのもこの年九月一日からであった。
九月十三日になると、講談落語協会が、「艶笑もの、博徒もの、毒婦もの、白浪ものなどの口演を禁止」を打ち出して話題った。これがつまり「禁演落語」の始まりとなる。
当時、「講談落語協会」というのは、六代目一龍斎貞山(講談)が会長を務め、桂文治、柳家小さん、春風亭柳橋などは、中の「落語部」に所属していた。
「国家総動員法も公布され、われわれもお笑いだけの報国でよいものかどうか、すべてお国のため、時局にふさわしくない演題は、この際避けるべきではないか」
という声が誰からともなく起り、そのふさわしくないという落語の選出が始まった。
まず、ネタの内容から「甲、乙、丙、丁」の四部門に分類。女郎買いもの、酒飲みもの、泥棒もの、間男もの、美人局もの、不道徳もの、残酷ものなどが槍玉に上り、「丁種」にランクされた。
それを一つ一つ拾い出したのが、前記五十三種になったわけであるが、初めからスンナリきまったわけではない。
当時、講談落語協会の顧問が、野村無名庵だった。
彼は、府立一中に学び、秀才を謡われたものの、生家が潰れ中退。
その際、親身になって中退をとめた親友が、谷崎潤一郎だったとのこと。
この無名庵が中心になり、禁演落語の構想は徐々に出来上がっていった。このほか東宝名人会の顧問森暁紅、落語研究会の顧問今村信雄、小咄を作る会の会長鈴木凸太なども協力した。
その後、正岡容の反対など、紆余曲折するが、とにかく検討に入ったのは、昭和十五年、開戦前のこと。
「はなし塚」建立は、昭和十六年十月。
開戦前。
開戦してからではない。
落語家が、過去の先輩たちから大事に伝承されてきた噺を自ら葬るほど、その時の国民感情は「平時」ではなくなっていたからこそ、戦争に突入した、とも言えないだろうか。
東京新聞での五街道雲助の連載が居残り仲間で話題になった。

五街道雲助著『雲助、悪名一代』
あらためて雲助の『雲助、悪名一代』を読んでみた。
こんな文章があった。
われわれはよく、「落語家は世情の粗で飯を食い」なんて言いますが、世情の粗ってなにかというと、職人連中の無知であったり気性の荒さであったり、その日暮らしの後先考えない呑気さ、おっちょこちょい、酒や博打や女に負けるしょうもなさ、夫婦喧嘩、どうしようもないけど、どうってことない人間の弱さーオレもあいつもバカだね、と笑ったしまうようなーそういうのを集めたのが落語なんです。
粗っていうのは、実にいい出汁(だし)が出るんですね。
なかなかいい、文章だと思う。
落語家が、世情の粗を語らなくなったら、その社会は、危ないのかもしれない。
国会議員の落語同好会のようなものを作った、元首相の子息が、昨日靖国神社に参拝したらしい。
議員の参拝がニュースになることに抵抗を示したらしいが、まったく分かっていない。
人気下降気味の彼は、右寄りの人の支援が欲しかったのか、などと勘繰る。
そんな男に、落語など語って欲しくない。
そういう行為が、もっとも、世情の粗とは遠い世界なのだと思う。
話は戻るが、禁演落語の選定の中心となった野村無名庵は、昭和二十年五月の東京大空襲で亡くなった。
だから、昭和二十一年九月の「禁演落語復活祭」には、もちろん参加できなかった。
私は、無名庵の『本朝話人伝』のAmazonのレビューに、加太こうじさんの本から、こんなことを書いていた。
野村無名庵著『本朝話人伝』
加太こうじさんの『落語-大衆芸術への招待-』から少し長くなるが引用する。「〜私は顧問の正岡容にすすめられて落語研究家の野村無名庵について落語の勉強をすることになった。〜野村無名庵は私に、落語を勉強するなら、落語を知らなくてはだめだから、まず、寄席できき、かつ、速記本を読めといって、騒人社刊の『落語全集』12巻を貸してくれた。〜無名庵はさいそくしなかったが、昭和20年の春に、12冊を風呂敷に包んで小石川の格子造りの家へかえしにいった。〜それから二、三日ののち、野村無名庵は空襲のために死んだ。〜後年、講談の一竜斎貞丈と無名庵の思い出を語ることができたが、貞丈は『あんな、いい先生が爆撃で死んじまったときいたときは、この世には神も仏もないんだなあって思いましたよ』と、いっていた」私がこの本を読むきっかけは、まさにこの文にあった。そして、この珠玉の落語・演芸評論を読むうちに、空襲で亡くなった本人の無念と、日の目を見ることがなく焼失したであろう数多くの原稿があまりにも大きな文化的損害であったことに心を痛めるのだ。
戦争への憎しみは、こういう人たちを奪ったことからも、一層募るのである。
朝日のコラムから、いろいろ思うことのあった、敗戦記念日だった。
(談志のいう業の肯定)
その余裕の中で、理想を希求する。
そうした精神の往復運動こそ真の人間らしさがあるのではないでしょうか?
