黒岩比佐子著『歴史のかげにグルメあり』より(3)
2020年 07月 23日

黒岩比佐子著『歴史のかげにグルメあり』(文春新書)
2008年発行の黒岩比佐子さんの本から、三回目。
本書は、料理をテーマとしてはいるが、関連する歴史ならびに歴史上の人物について学ぶことのができる。
今回の主役は、大倉喜八郎だ。
「第五章 怪物的な政商と帝国ホテルの料理」から。
「死の商人」と呼ばれた風雲児
大倉喜八郎について書こうとすると、困惑せずにいられなくなる。岩崎弥太郎、安田善次郎、藤田伝三郎、浅野総一郎など、「明治の政商」といわれる人々のなかでも、ひときわ目立つ存在だったのが、この大倉喜八郎である。天保生まれで、昭和まで九十歳の長寿を全うした大倉の名は、全国に鳴り響いていたが、毀誉褒貶も極端だった。
二十歳で開業した乾物商かた次々に事業を興し、維新前後の動乱期に巨額の財を成した大倉は、「今太閤」とも呼ばれた。日本初の私立美術館を創設したことや、大倉商業学校(現在の東京経済大学)の創立者としても知られている。だが、その反面、「死の商人」「戦争男爵」とも評されている。
大倉が生前に手がけた事業は大小三百にものぼり、その全貌をつかむだけでも難しい。派手好きで自己顕示欲が強い大倉は、向島に建てた別荘で政府要人を接待して、せっせと人脈づくりに励んだ。また、自分の古希や米寿の節目ごとに盛大な祝宴を開き、政財界の名士を招いて大盤振る舞いをした。
(中 略)
戊辰戦争で武器商人としてのし上がった大倉は、1872(明治五)年、欧米諸国の商工業視察のために、通訳を同伴して旅立つ。たまたまロンドン滞在中に出会ったのが、岩倉使節団の一行だった。このとき、岩倉具視や大久保利通や伊藤博文などの知遇を得たのをきっかけに、大倉は「政商」の道を歩むことになる。戊辰戦争後も台湾出兵、西南戦争、日清戦争と続き、政府は大倉の力を必要としたのだった。
明治新政府を構成する薩長人脈との太いパイプを生かした大倉喜八郎が、帝国ホテルにも関係していくのは、自然な流れと言えるだろう。
帝国ホテルは、鹿鳴館の生みの親、井上馨の構想が元となっている。
しかし、井上が条約改正の失敗で下野してしまったために、その構想を引き継いだのが、渋沢栄一と大倉だった。
この二人を中心に、帝国ホテル建設計画は実現に向けて動き出す。渋沢栄一は大倉より三つ年下だげ、近代日本の実業界における首領ともいうべき存在である。帝国ホテル建設計画は、カリスマ性のある渋沢と、ブルドーザーのように猛進する大倉う“最強コンビ”を得たことで成功した、といってもいい。
大倉の大倉商会(後に日本土木会社、現在の大成建設)は、鹿鳴館の建設にもかかわっていた。『大成建設社史』によれば、1884年に二度目の外遊から戻った大倉は、欧米で宿泊したようなホテルが日本にないことを、非常に残念がっていたという。
1887年十一月、発起人総代として大倉と渋沢両名の名で東京府知事宛に「会社創立御願」が出された。当初は「東京ホテル」で届け出たが、すでに日比谷に同名のホテルがあったため、「帝国ホテル」と改称された。
この帝国ホテルが開業したのは、1890(明治二十三)年十一月。
古今亭志ん生の生まれた年だから、志ん生は帝国ホテルと同じ年齢だったんだ。
施工を請け負ったのは大倉の日本土木会社、設計したのはジョサイア・コンドルの教え子である渡辺譲だった。
フランク・ロイド・ライトの新館建設は、大正に入ってからのこと。
さて、ようやく料理のこと。
開業以来、帝国ホテルの食事は、もちろん正統フランス料理だった。『帝国ホテル百年史』には、「初代の吉川料理長から七代高木料理長までの記録が社内に乏しく、詳細は不明」とあり、初代料理長を吉川某と記しているが、作家の小島政二郎の「秋風の鳴る鈴」(『小説新潮』1965年11月号掲載)のなかに、「抵抗ホテルに、吉川兼吉というシェフがいて別格」と書かれている部分があった。それによると、吉川兼吉は「横浜の二十番で西洋人に仕込まれた日本人コックのい元締格」で、当時、名人として通っていたという。「横浜の二十番」とは横浜の外国人居留地の地番で、二十番にあったのは雄三重なグランドホテルである。
この「秋風の鳴る鈴」は、風月堂をモデルに書かれた連作小説の一篇だが、人物が実名で登場していることから見て、史実に基づいて書かれていると考えてもよさそうだ。
その吉川が腕をふるったと思われる晩餐メニューが残っていた。帝国ホテル開業から一カ月後の1890年12月のものである。メニューのフランス語の部分は省略した。また、カッコ内の注は『帝国ホテル百年史』編者の付記による。
牛 ソップ ロゼイユ(西洋すかんぽのクリームスープ)
鱸 ソース ヲ ウイトル(鱸のボイル牡蠣クリームソース添え)
雉子 ヲ シュ(きじのローストキャベツの蒸煮添え)
犢肉 ソース ピカン(仔牛の背肉黄金焼、ピカントソース添え)
野菜 アリコーベル(サヤインゲン)
小鴨 ロッチー ヲ クレソン(小鴨蒸焼クレソン添え)
菓子 プダン ドイプロマット チィトヲス(果実入りプディング、チーズトースト)
最初の西洋すかんぽのスープは、鮮緑色のポタージュスープ。スズキは地中海で獲れ、フランス料理にもよく登場する魚だ。キジも日本料理の食材のように思えるが、フランスでも狩猟鳥として知られ、よく食されている。その後、さらに肉料理が二種類出て、最後はデザートである。
当時の帝国ホテルの料金は、一日の室料と食事代合計で二円七十五銭から九円だった。巡査の初任給が八円、一般の旅籠が一泊二食付きで二十銭~五十銭程度だったことを考えても、庶民にはとうてい手の届くものではなかった。
小島政二郎さんの名が登場すると、代表作『円朝』を思い出す。
ずいぶん前になるが、Amazonのレビューを書いた。
確認すると、なんと、あの小谷野敦さんもレビューを書いていた。役に立ったという票数が、私の方が多いのは、少し嬉しい^^
小島政二郎著『円朝』
ちなみに、ニックネームは、小言幸兵衛ではない。
海外のあるミステリー作家の泥棒シリーズの主人公の名。
寄り道はこれくらいで。
帝国ホテルの料理長というと、あの村上信夫さんを思い出す。「ムッシュ村上」だ。第11代帝国ホテル料理長就任は、昭和四十四年。
その五年前、昭和三十九年の東京オリンピックの女子選手村の総料理長を務めた。
東京オリンピック・・・来年も開催は無理だと思う。
明治維新政府が、西欧化を急ぐ中で、鹿鳴館が出来、帝国ホテルができた。
その背景には、不公平な条約改正のためにも、文明国日本を装うという理由があった。
結果として、条約改正交渉はうまくいかなかったのだが、明治政府の考え、行動には理解できる。
あえていえば、将来の国家像を描いた戦略も、大義もあったのではなかろうか。
さて、では今の日本政府の考えや行動に、戦略、大義などはあるのか。
オリンピック中止阻止という、いわば利権への執着が新型コロナウイルスの感染拡大を招いた。
今また感染が拡大する中でのGo To キャンペーン見切り発車は、献金でつながった自民党政権中枢の旅行業界への拙速かつ過度な対応が背景にある。
また、話がそれてきた。
さて、黒岩さんのこの本、再読して、あらためて良い本だと思う。
料理と一緒で、噛めな噛むほど、という感じ。
あと二~三回はご紹介するつもりだ。
嫌煙権運動に反発する方ですので、さぞかし今年4月以降の傾向を苦々しく思っていることでしょう。
メニューを拝見、これ全部食うなんてすげえなァ!
僕などはどれか一品でご飯があれば十分。
もっとも昔はかなり長い時間をかけて平らげたようですがね。
喫煙者の私は、分煙は賛成です。
しかし、たとえばドトールでもお店によって、電子タバコのみの喫煙室というのは、早く改装して紙巻も吸えるようにしてもらいたい^^
凄いメニューですよね。
私も見ているだけで、お腹いっぱいです。
