黒岩比佐子著『歴史のかげにグルメあり』より(1)
2020年 07月 20日

黒岩比佐子著『歴史のかげにグルメあり』(文春新書)
本書の著者、黒岩比佐子さんは、2010年に五十二歳という若さで亡くなった。すい臓がんだった。
次のような作品を残した。『『食道楽』の人 村井弦斎』(岩波書店)、『日露戦争 勝利のあとの誤算』(文春新書)、 『編集者国木田独歩の時代』(角川選書) 、『食育のススメ』(文春新書) 、『明治のお嬢さま』(角川選書) 、『古書の森逍遥 明治・大正・昭和の愛しき雑書たち』(工作舎) 、『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社)など。
七年ほど前、黒岩さんによる、むのたけじさんへの聞き書き『戦争絶滅へ、人間復活へ』(岩波新書)を紹介したことがある。
2013年10月20日のブログ
五代目小さんについて、むのたけじさんならではの独特の感性が伝わる内容だった。
今は亡き、むのさんから、見事に珠玉の言葉を引き出していたのが、黒岩さんだった。
黒岩さんは昭和三十三(1958)年5月生まれで、私の三つ下。
私は、大学時代に体育会で軟式庭球(現在の、ソフトテニス)部に所属していたが、黒岩さんも慶応大学で同じ軟庭で活躍されていたらしいので、彼女が一年生、私が四年の昭和五十二(1977)年の新潟インカレで、もしかすると近くですれ違っていたのかもしれない。
彼女の著作の中から、何か紹介しようと思いながら、ずるずる時間が過ぎていた。
没後に読売文学賞を受賞した『パンとペン』にしようかとも思ったが、もう少しとっつきやすいものが良いかと思い選んだのが、この本。
この本、なかなかに楽しい。
「第一章 本膳料理に不満を抱いた米国海軍提督ーマシュー・C・ペリー」より。
実は、落語とも少し縁のある内容なのだ。
調印前に供された伝統的な本膳料理
ペリー来航と日米和親条約の意義については、多くの文献で解説されているので、ここで触れるまでもないだろう。むしろ私が興味を惹かれるのは、このときアメリカ人と日本人が互いに味わった「食」に関するカルチャーショックについてである。
言語や文化が異なる客人をもてなす饗応は、古くから世界中で行われている。実は、鎖国時代の日本にも、将軍の代替わりの祝賀などの名目で、朝鮮から通信使が十数回来日しており、幕府が彼らを饗応した献立の記録も残っている。それは、本膳・二汁五菜の二の膳・二汁三菜の三の膳・貝類を並べた四つ目・菓子中心の五つ目といった伝統的な形式の本膳料理であり、もちろん純粋な日本料理だった。外交上、国家の威厳を保つためには、外国からの客人も自国の料理でもたなす必要があったからだ。
江戸時代に武家の威儀を正した宴の料理として定着した本膳料理は、中央に据えられる本膳に続いて、二の膳、三の膳というように数多くの料理が並べられる。朝鮮通信使には、三汁九菜という最高級の本膳料理も供されていたが、享保期に入ると将軍徳川吉宗の節約方針により、簡略化された接待になった。
(中 略)
では、新興国家アメリカからやってきた“招かれざる客”ペリーに対して、幕府はどのような饗応を行ったのだろうか。実はその料理の献立も残っている。両国が和親条約締結で合意に達したのを受けて、調印に先立つ三月八日(陰暦二月十日)に、幕府は横浜でペリー一行に食事を出している。史料によって記述は若干異なっているが、東京大学史料編纂所が編集した『大日本古文書 幕末外国関係文書之五』を参考に、献立を紹介してみよう(ただし、添書と説明文は一部略)。
ということで、たしかにネットで調べると、記録した人によっても内容、書き方が若干違うのだが、ペリーご一行に供された本膳料理の内容を、本書からそのまま引用する。
一 長熨斗(ながのし) 敷紙 三方
一 盃 内曇り土器三ツ組
一 銚子
一 吸物 鯛鰭肉
一 干肴 松葉するめ 結ひ昆布
一 中皿肴 はまち魚肉 青山升
一 猪口 唐草かい 同防風 わさひせん
一 吸物 花子巻鯛 篠大こん 新粉山升
硯蓋 紅竹輪蒲鉾 伊達巻すし 鶴羽盛
花形長芋 緑こんふ 久年母 かわ茸
すまし吸物 ささい 鮟掛平貝
ふきの頭せん
うま煮(ぶた煮、一本) 丼 車海老
押銀なん 粒松露 目打白魚 しのうと
鶏卵葛引大平 肉寄串海鼠 六ツ魚小三木
生椎茸 細引人しん 火取根芋 露山升
鉢 鯛筏 友身二色むし 風干妨鱗
自然生土佐煮 土筆麹漬 酢取せうか
茶碗 鴨大身 竹の子 茗荷竹
刺身 平目生作り、かじめ大作
鯛小川巻 若しそ 生海苔、花わさひ
猪口 土佐せいゆ いり酒 辛子
二汁五菜 本膳
鱠 鮑笹作り 糸赤貝 しらが大根
塩椎たけ 割くり 葉つき金かん
汁 米摘入 布袋〆治 千鳥牛蒡
二ば菜 花うと
香物 奈良漬瓜 味噌漬蕪 篠巻菜
はなしほ 房山升
煮物 六ツ花子 煮抜豆ふ 花菜 めし
二の膳
敷みそ蓋 小金洗鯛 よせえひ 白髪長芋
生椎たけ 三ツ葉
汁 甘鯛背切 初霜昆布
猪口 七子いか 鴨麩 しの牛蒡
台引 大蒲鉾 焼物 掛 塩鯛
吸物 吉野魚 玉の露 中皿肴
平目作身 花生賀
盃 銚子 飯鉢 通ひ 湯 水
菓子
一 海老糖
一 白石橋香
一 粕庭羅
見ているだけで、お腹一杯になりそうだが、そこは、日本料理、それぞれの量は少ない。
検索していて「日本食文化の醤油を知る」というサイトを発見。
ペリーに供された献立のことにも触れているし、代表的な本膳料理の写真もあって、上のメニューのイメージ化の助けになると思うので、ご参照のほどを。
「日本食文化の醤油を知る」サイトの該当ページ
このもてなしに、果たしてペリー一行は、満足したのか否か。
想像がつくように、肉類がほとんどなく、品数は多くとも量の少ない料理に、あまり良い評価は得られなかったようだ。
すでに、ここまでで落語『本膳』を思い浮かべる人も少なくないだろう。
庄屋の家の婚礼に招かれた村の者、本膳を食べる作法を知らないので、見本となる手習いの先生の真似をしようとしてのドタバタ。
『荒茶』や『茶の湯』で長屋連中が登場する場面などにも似た内容。
そして、このペリー饗応の料理のことでは、もう一つ大事な落語ネタとの関係がある。ペリー一行に供する本膳料理三百人分を作ったのが、あの百川であることは、落語愛好家の皆さんなら、先刻ご承知のこと。
本書でも、そのことは触れないはずがない。
料理を仕出ししたのは江戸の料亭百川で、一人前三両、菓子一人前銀五匁七分で三百人を請け負ったと伝えられている(ただし異説もある)。児玉定子氏は『日本の食事様式』で、一人前三両というこの饗応の費用は、当時の大工の手間賃六十人分に相当する、と試算している。
余談ながら、百川というと、落語愛好者は故六代目三遊亭圓生が得意にした『百川』を思い出すのではないか。
黒岩さんが、丁寧に「故六代目」と書かれているのを見て、あらためて故黒岩比佐子と書かなければならないのが、つらい。
料理のことに関連して歴史の勉強にもなるし、意外な発見もある本から、あと二~三回はご紹介するつもり。
武将の姿が浮かぶようで面白い噺でした。
よい本をご紹介くださり、ありがとうございます。
日本料理って実に贅沢ですよね。
京都「たん熊」の料理は、一品一品に工夫があって美術品を堪能しているかのようでした。
