旧暦五月十五日に、思うこと。
2020年 07月 05日
近くの中華屋さんで、八名のほぼ四か月ぶりの再会を祝して昼食。
やはり、仲間とはオンラインではなく、直接会って話すことが、元気をくれる。
もちろん、できるだけ間隔を空け、手洗いを入念にして、マイアルコールで除菌しての会食だ。
テニスができなかった位では済まない豪雨が、九州などを襲っている。
昨日は朝から、球磨川氾濫のニュースに、何とも言えない気持ちになった。
このコロナ禍の時期に、避難をするとなると、地元の人々の不安はますます募るだろう。
都内の感染者は、完全に三桁ペースになった。
どう考えても、緊急事態宣言の解除も東京都の自粛緩和も、前のめり過ぎた。
今からでも、国は緊急事態宣言を発すべきだと思う。
今日は、旧暦五月十五日。
慶応四年に、上野戦争があった日。西暦なら、1868年7月4日。
先月書いたように。あの年も、今年と同様、閏四月が間に挟まっての、五月だった。
2020年6月13日のブログ
二年前の旧暦五月十五日、吉村昭の『彰義隊』から記事を書いたことがある。
2018年6月28日のブログ
2018年7月2日のブログ
また、映画化された際に、杉浦日向子さんの『合葬』について書いたこともある。
2014年12月12日のブログ
2014年12月16日のブログ
森まゆみ著『彰義隊遺聞』
森まゆみさんの『彰義隊遺聞』は、平成16年に新潮社から単行本、平成20年に新潮文庫で再刊された。
「はしがき」をご紹介。
1954年に本郷駒込動坂に生れた私にとって、休日の楽しみといえば、いちばん近くの盛り場である上野の山や動物園で遊び、松坂屋百貨店で買物をし、屋上の遊園地で遊ぶことだった。広小路を渡るとき、母はよく、「ここで彰義隊の上野戦争があった」といった。上野戦争を幼な心に刻んだ初めてである。
森さんとはほぼ同じ年齢。
北海道生まれの私は、もっともっと遅くに、上野戦争のことを知ることになる。
森さんは、地元に数多くの上野戦争の名残りを発見し、土地の古老から「上野の戦争」のことを聞くことにより、主宰する「谷中・根津・千駄木」を舞台に、同じ戊辰の昭和63(1988)年に「彰義隊の忘れもの」と題する特集を組んだ。「谷・根・千」では、その後補遺を分載している。
本書は、平成7(1995)年から翌年にかけ、「東京人」に一年以上に渡り連載された内容が元となっている。
「はしがき」から、もう少しご紹介。
私の主意は地域史の掘り起こしと定着、そして逆賊とされ、「烏合の衆」と軽んじられ、一顧だにされない彰義隊の存在を世い伝えることである。
「第十章 団子坂の戦争」から、少し引用。
団子坂でいぼた屋といて、結核に効くといういぼた虫を摺って粉状にしたものを商っていた山口家の山口義雄さんには、『戊辰戦記絵巻』中の「団子坂戦争の図」を見せていただいた。
「うちは上野戦争の前に団子坂に来たんですが、明日にでも戦いがあるというので、大祖父(じい)さんが荷物を染井の親戚ずけ、一人ここでがんばってました」。三崎坂を駆け上る黒服陣笠の官兵と、袴にタスキ姿の彰義隊が斬りあっている。
「その日は雨がひどく、枇杷橋の付近でも藍染川が氾濫して、水が腰まであったそうです。そこを官軍が攻めると百姓家や寺に隠れた彰義隊が斬り込むというふうで、官軍が思うように進めなかったらしい。大変な激戦で、うちの古い家の柱には弾の痕がありました」。
勝てば官軍、という歴史の実態を、明らかにしようとするこの本については、別途、紹介するつもり。
今年も、閏四月の後の五月十五日、雨の降る中、我々は、コロナウイルスと戦っているのだなぁ、などと思いながら、152年前の今日は、日本人同士が戦争をしていたことを思い出す。
果たして、コロナウィルスとの戦いを百年後に振り返った際、どのような戦いだったと評されるのだろう。
官軍も賊軍もありえない戦いなのだが、歴史は正しく伝えられていくのだろうか。
そこに、人類の愚かさが記されているのか、あるいは、人類の勝利の記録なのか・・・・・・。
できれば、少なくともこの日本においては、知恵と勇気と連帯の歴史が刻まれていることを祈りたい。