徳川夢声著『話術』より(2)
2020年 01月 15日

徳川夢声著『話術』
徳川夢声の『話術』からの二回目。
本書初版は、昭和二十二年刊行の秀水社版。二年後に白揚社からも刊行された。二年前に再刊された文庫の元になったのは、白揚社が平成十五年に出した新装版。
前回は、徳川夢声が、小学校の高等科の頃から、雨で体育が休みになった教室で落語を演じるほど好きだった、ということをご紹介した。
今回は、本書の主眼である「話術」について書かれた部分からご紹介。
総説「第二章 話の根本条件」では、話術の条件として、次の項目を提示している。
(1)人格と個性
(2)言葉の表現
(3)声調と口調
(4)間の置き方
(1)から(3)までのご紹介を大胆に割愛し、「間」について紹介したい。
夢声、なかなかユニークなたとえをしている。
ハナシというものは、喋るものですが、そのハナシの中に、喋らない部分がある。これを「間」という。こいつが、実は何よりも大切なもので、食物にたとえていうと、ヴィタミンみたいなものでしょうが、直接、ハナシのカロリーにはならないまでも、このヴィタミンMがな欠けては、栄養失調になります。
ヴィタミン「M(間)」とは、言い得て妙^^
夢声は、ハナシに限らず、芸術と名がつくものには、音楽、美術、彫刻、文学、演劇、みな「間」が、重要な位置を占めているという。
そして、実に興味深い、ある人の言葉が紹介されている。
久保田万太郎氏は、
「忠臣蔵の四段目は、マの芝居ですよ」
と言われたが、あの長時間の幕に、台詞は非常に少ない。判官が切腹するというだけで、一幕のほとんど全部が済んでしまう。かりにこれを六代目(尾上菊五郎)がやると、あの長い時間を、満場水をうったる如くもたせるが、大根役者だと、その半分の時間しかもたない、その上客は大ダレとなる。要するにいわゆる「マ」がもたないのです。
あの、判官切腹、出物止めの四段目を、「間」と言い切るのも、凄い。
たしかに、長い忠臣蔵において、重要な間なのかもしれない。
もちろん落語に関しても話は及ぶが、噺そのものに限らず、このようなことが書かれている。
高座に落語家出てきました。彼は、高座に姿を現わし、中央まで歩いて、座布団にすわり、お辞儀をしました。
ただこれだけで、この落語家は巧いか、拙いか見物にはわかっています。たったそれだけの動作、あるかないかの表情、その中にバランスの破れたところがあったら、これはもう拙いに決まっています。一人二人では鈍感な客も、大勢そろうと一種の連鎖反応が起こるでしょう。群集心理というものは、恐ろしい「勘」をもつものです。
ですから、ハナシをする場合、コトバだけの研究では足りません。そのコトバにもたせる「マ」の研究、話している間の表情動作すべてにわたるバランスの研究、そこまで行かないと満点とはいえません。
これ、よく分かるなぁ。
舞台脇から高座にとぼとぼ歩いて、高座に落ち着く、その所作でも、たしかに巧拙は察しがつく。
そういう動作、表情も含めて、「間」と捉えているのだ、夢声は。
では、コトバだけでなく、「マ」の研究、いったいどうすればよいのか。
では、その研究はどうするんだ?
答えは平凡です。たくさんの経験をつむこと、絶えずその心構えでいること、これです。
「何か“マ”の簡単にわかる虎の巻はないのかい?」
だって? そんなものはありませんよ。何しろカンの問題ですから。
ということで、経験をつむこと、絶えず心構えでいることで、なんとか、私の素人落語も磨いていかねば^^
