徳川夢声著『話術』より(1)
2020年 01月 14日

徳川夢声著『話術』
徳川夢声の『話術』は、初版が昭和二十二年秀水社の刊行。二年後に白揚社からも刊行された。二年前に再刊された文庫の元になったのは、白揚社が平成十五年に出した新装版。
著者を知らない人も多いかもしれない。
同書表紙扉にあるプロフィールを元にご紹介。
徳川夢声 Tokugawa Musei (1894-1971)
島根県益田生れ。本名福原駿雄。東京府立一中を卒業後、活動写真弁士となる。1915(大正4)年より“徳川夢声”を名乗る。独特のリアルな語り口で一世を風靡した。トーキーの時代を迎えると、漫談家、俳優、文筆家として活躍。’39(昭和14)年、ライフワークとなる吉川英治原作『宮本武蔵』を初めてラジオで朗読する。戦後は日本初のラジオのクイズ番組「話の泉」(NHK)への出演のほか、テレビにも進出。いくつものレギュラーを抱える。(後略)
活動写真の弁士については、ちょうど映画「カツベン」が上映されていて、若い人にも良い歴史の情報提供になっているかもしれない。
私個人も、「宮本武蔵」も「話の泉」も聞いたことはない世代だが、テレビで晩年の夢声の姿を見たことはある。
さて、“話芸の名手”が、戦後すぐに著した本では、どんな“話術”の極意が明かされているのか。
全体の構成は、このようになっている。
総説
第一章 話の本体
第二章 話の基本条件
各説
第一章 日常語
第二章 演壇話
話道の泉
拙ブログにおいて、徳川夢声の名は、落語関係の本について書いた記事で、何度か登場している。
落語も好きだったし、実は、子どもの頃から自ら落語を演じていたのであった。
各説「第二章 演壇話」の「演芸」からご紹介。
私にとって落語は、実に結構な話術のお手本でした。私は、このお手本によって、無意識に勉強していたのであります。
無意識と言うとおかしいかもしれませんが、私自身は落語によって、別に修業してる気は毛頭なかったので、ただ、好きで真似をしていたに過ぎないからです。後年、話術を自分の職業にしようなどとは夢にも想わなかったのであります。
小学生のころ、雨が降って体操の時間が、お休みになると、私は教室で話をしたものであります。その話というのが、多くは落語でした。今日から考えると、随分乱暴な無茶なことですが、お女郎買いのお噂など、申し上げたこともあります。
例の、フラれた客が忌々しがって、赤銅(あかがね)の洗面器を失敬し、背中に忍ばせて帰りかけると、オイランが送って何か嬉しがらせを言って、背中をポンと叩くと、ポワーンと鳴るーおや、今のは何だい、と言われて、なァに分れの鐘だよ、と下げるーあれを教室でやったのでした。
「うん、分れのカネか、ハッハッハッ」
と聞いている先生が一番ウケて、喝采をしてくれました。
こういう話を知ると、徳川夢声という人に、大いに親近感を抱く。
私も、小学生の頃に教室で友達と組んで漫才を披露したり、中学や高校の予餞会などで落語を演じたものだ。
とはいえ、夢声のように、バレ噺まではやらなかった、もとい、やれなかったけどね^^
駿雄(としお)少年の落語のレパートリーは、私なんかより、とんでもなく多かった。
それは、高等一年生ごろから始まったことー高等一年は今日の小学校五年、その時代は小学校が四年、高等科が四年という制度でしたーで、高等二年、三年がその絶頂でありました。とにかく、雨の降る度に、何かしら新しい話を、二ツなり三ツなり演ずるのでありますから、タネの仕入れが大変であります。
そのタネの大部分は、文芸倶楽部や、小さん落語集とか馬楽落語集とかの活字から仕入れるので、落語の寄席へ通ったわけではありませんでした。耳から落語を聞いたのは、そのことまでは、ほんの数える程度のものでありました。私が盛んに色物席通いをしたのは、中学三年ごろからであります。
なるほど、雨の日の出演のために、ネタを一所懸命に仕入れていたのだね。
私も、受験勉強中にラジオの落語を楽しんだが、高校時代のネタの仕入れ先(?)は、もっばら興津要さんの『古典落語』だった。
昭和四十七年の「上」から、「下」「続」「続々」「続々々」、そして昭和四十九年の「大尾」までの全六冊は、発行されるのを待ちわびて、親には参考書を買うと嘘をついて小遣いをもらい、本屋に駆けつけたものである^^
この本を読んで、これまでは遠くにいた話術の達人を、身近に感じることができた。
第一回は、これにてお開き。
幸兵衛さんも中学から落語を演じていたとは、「栴檀は双葉より芳し」だったんですね。
あら、次の記事で、まさに「間」のことを取り上げようと思っていました^^
私の中学時代と福原駿雄少年とは、比べものにはなりません。
凄いんですよ、彼は一度聴いたら、ネタを覚えていたようです。
一時、落語家になろうとしたくらいですからね。
