立川談志著『食い物を粗末にするな』より(2)
2020年 01月 09日
立川談志著『食い物を粗末にするな』
『食い物を粗末にするな』から二回目。
同書は、2000年3月に講談社+α新書での発行。
副題に、「並の日本人」の食文化論、としてある。
「第一章 “捨てる”“残す”に腹が立つ」の冒頭からご紹介。
地獄であり餓鬼である
食べ物について書く。世の中ァ豊かで平和である証拠は、雑誌ィ見ても、車内や駅の広告見ても、テレビでも、何でも何処でも「旅」と「食い物」の話である。いや「旅と食い物」でなく、「食い物と旅」である。その旅という旅行とて、食い物の伴わない旅なんざァ現代(いま)の世にゃあ通用しない。ま、人間食わなきゃ死んじまうから、まず、生きていくためにゃあ「食う」ことであり、そのためにゃあ「食い物」、とこうなるだろうが、それにしても酷い。
こんなに世の中に食い物が氾濫しているのに、まだあせり、ガッつき、あれも、これもと食い漁り、“それを食わなきゃ生きてる価値が無い”とばかりに群がり、集まり、食らいつく。見ようによっちゃあ地獄であり餓鬼である。
“地獄”とか“餓鬼”といった言葉が、なんとも家元らしくはある。
この本は約20年前のものだが、はたして今の日本はどうなのか。
「食い物と旅」番組は増えるばかりだし、「食い物の氾濫」は、止まることがない。
そして、多くの「食い物」が、捨てられている。
引用を続ける。
戦中、戦後の、あの物資(もの)の無かった時代、芋と水ばかりの中にわずかに米の浮いていた「雑炊」を、命を賭けて奪い合ったあの頃と、図式は一つも変わっていない。昔のそれは“己の生命(いのち)”という生きるためだったが、現代(いま)は・・・・・・一体何のためか、少なくとも、“生きる、死ぬ”という生命の問題ではあるまいに。なら何だのだろう。かほどに食い物に有り余る現代(ごじせい)に“未だ食ってない食物(もの)が残っている”“それを食わないでは死に切れない”とばかりに世界の食い物を、珍を、奇を、求めて血眼である。
ちょいと世間に評判になると、といっても“テレビが写した”“テレビに映った”だけでその店の前には餓鬼共が並んでケツカル。これもまたヤミ市で、食い物を待つあの頃の風景と似て、貧乏人の姿とダブル。こんなに食い物が余ってるのに、何で、行列(なら)んでまで、その食い物を欲しがるのか・・・・・・。ちょいと考えて見てみりゃあ、さほどの食い物でもあるまいに。
まさに旬(?)のタピオカを例にあげるまでもなく、メディアが、なかでもテレビが取り上げ、そこに行列ができ、それを売るお店が激増するという構図は、20年前から変わらない。
いまや、テレビ情報がネットで拡散される。LINEで映像付きで友人から送られ、「私も行かなきゃ!」と、“友達の輪”が広がる。
ちなみに、タピオカ、私はずいぶん前に、訳の分らないエスニック料理屋で食べて以来、まったく口にしていない。好みもあろうが、何が良くて、行列してまで・・・・・・。
さて、家元が憤慨する飽食日本ではあるが、地球全体を見れば、まったく違った現実が存在する。
日本農業新聞が、昨年の「世界食料デー」10月16日に、こんな記事を載せている。
日本農業新聞の該当記事
飽食の向こう側で、一体何が起きているのか。国連などによると、世界の穀物生産量は毎年26億トンを超す。在庫もあり、人類の胃袋を満たすのに十分な生産がある。なのに9人に1人が慢性的な栄養不足に苦しむ。アジアやアフリカに集中し、3年前から増加に転じている。気候変動や政情不安が危機に拍車を掛ける。
この世界では、8億人が飢え、19億人が食べ過ぎで、うち6億人は肥満である。なぜこんな食の偏在が起きるのか。
先進国を中心に世界の食料の3分の1、13億トンが毎年廃棄されている。日本も「フードロス大国」で、年間約640万トンが捨てられている。国民1人が毎日、茶わん1杯分のご飯を捨てているのに等しい。37%と過去最低の食料自給率しかない国で、この大量消費・廃棄である。
食べ物を捨てることは、生産に要した大量の水や土壌などの資源を無駄にすることでもある。長距離輸送に伴う二酸化炭素(CO2)排出など環境にも負荷を与える。
自分が捨てる茶碗一杯のご飯で、救われる人もいる、という想像力を持つことは大事だろう。
「フードロス」は、Wワークで飲食関係のアルバイトをしている私としても、実に切実な問題だ。
そのお店は、セントラルキッチンではなく現場で仕込むものが多いお店。また、それを“売り”にもしている。
もし作り過ぎると、期限を過ぎたら捨てざるを得ない。昨日のバイトでも、期限切れのため捨てたものがあった。
とはいえ、仕込みが少なすぎると、販売チャンスを逃がす。券売機に「売り切れ」の赤ランプがつく。それを見て帰るお客さんの姿を見ると、寂しくなるのだよ。
また、お客さんの食べ残しを捨てる時は、なんとも複雑な心境になる。
「不味かったのか?」「量が多すぎたのか?
とにかく、もったいない。
本書に戻る。
家元の「弁当箱」のこと。
一口に言うと、「食べ物を粗末にしすぎる」。ナニ世の中食べ物ばかりではないけれど、いくら日本が豊かでも、ああ簡単に食い物を捨てては不可(いけ)ない、残しては駄目だ。まして談志(あたし)のように戦中、戦後と物資(もの)の無い時代に生きてきた年代の者にとっては、気が狂いそうになるほどの食い物の氾濫と、それらを平気で“残す”“捨てる”という行為に我慢が出来ない。腹が立つ。
(中 略)
それでネ、そこで作ったのが、立川談志のタッパーウェア、つまり、「談志パック」の出現、出番である。ナニ、それほどのモノに非ズで、普通のタッパーに山藤章二画伯による家元の似顔絵が描いてあって、
●食べ物は大切に
●パーティ・宴会の残り物は持って帰ろう
●乾杯前に詰め込むのは禁ずる
●責任は自分で負い、自分のリスクで食え
●ニセ物に気を付けろ
と、こういう文章であります。
この弁当箱、欲しいなぁ^^
そんなTVのシーンはまさに新作落語になり得ます。
暮れから正月にかけて向田邦子の随筆を読みましたが、食べ物が家族と連結しており、甘酸っぱい回想が語られていて感嘆した次第です。
日本の食文化、母親の味、なんてことを、岩室へ行って家元の写真を見つけてから考えます。
タピオカ店への行列を見て、家元だったらどう言ったかな、なんて思ってたり。
私は子どもの頃六人家族だったので、母親がどんなおかずも大きな皿に盛って「よーいドン」てな感じでした。一番下なので、不利でしたね^^