柳家小満ん著『江戸東京落語散歩ー噺の細道を歩く』より(2)
2019年 10月 09日
さて、このシリーズの二回目。
柳家小満んが「東京かわら版」で連載していた「噺の細道」が河出から書籍化されたのが、『江戸東京落語散歩ー噺の細道を歩く』。
「東京かわら版」への連載が、平成十六年一月からの五年間。
本は、十年前、平成二十一(2009)年の発行。
第一回では六十の項目を含む目次をご紹介した。
その最初は、「日本橋」。
やはり、旅(?)の始まりは、ここからだろう。
一 日本橋
道のりの総元締めは日本橋
江戸時代、各街道には一里(約3.9キロメートル)ごとの一里塚があったが、その起点は日本橋である。現在の橋は石造の二連アーチで、明治四十四(1911)年に架けられたものだが、橋の中央には「日本国道路元標」があって、北は札幌、南は鹿児島までのキロ数が表示されている。「盃の殿様」のお国は「江戸よりおよそ三百里」ということであるが、はたしてどの辺であろうか。遠国から、江戸吉原の太夫へ盃を遣わせた、殿様の思いがいじらしい。
本書にも写真が掲載されている、日本橋の「日本国道路元標(げんぴょう)」を、Wikipediaの「道路元標」から、拝借。
Wikipedia「道路元標」
「盃の殿様」の、江戸から三百里の地、ほぼ1200キロの場所はどこか。
あの噺からは考えると、江戸から西にの地にある藩。
ざっと距離計算をすると、日本橋から熊本城までが、ほぼ1200キロ。あのあたりと思って、噺を聴いている。
小満んのこの噺は何度か聴いているし、喜多八の高座も懐かしい。
さて、もう少しご紹介。
江戸時代の日本橋は、幅四間三尺(約八メートル)、長さ二十八間(約五十メートル)で、欄干の柱頭には擬宝珠があったが、明暦三(1657)年の大火から安政二(1855)年の大地震まで、計九回も焼け落ちている。両国の江戸東京博物館には、檜造りの日本橋が半分だけ復元されているが、風雨に晒されていないのでちょっとよそよそしい。伊勢神宮の宇治橋の渡り心地と合わせて、日本橋を想像したことを思い出す。
押送り日本と江戸の間に来る
百万都市、江戸の魚河岸へは毎日数万尾からの魚が入荷したが、江戸前のものだけでは間に合わず、伊豆、相模、安房、上総、下総などからも、毎朝一斉に魚が届いた。船は江戸湾から大川へ、そして日本橋川に入り、江戸橋を潜って魚河岸へ着く。中でも威勢のいいのは、風を頼りにしない八丁櫓以上の櫓船で、これを押送船と言ったが、こうして運ばれた初鰹が高いのか当然であろう。
初鰹むかでのよふな船に乗り
現在の橋袂(たもと)には「日本橋魚市場発祥の地」の記念碑が乙姫像と共に建っているが、むろん往時の繁盛ぶりを偲ぶには物足りない。日本橋を貫く中央通りが江戸の通町で、道幅十間余(約十八メートル)だったというから、日本橋の橋幅から察しても広々と感じられたはずだ。
幅四間三尺(約八メートル)の日本橋から、幅十間(約十八メートル)の中央通りに出たなら、たしかに、広々と感じたことだろう。
この後は、こう続く。
橋袂を右へ曲がり、江戸橋の交差点を少し行った処に、楊枝の「さるや」がある。宝永年間(1704~11)の創業で、都々逸付きの爪楊枝は色気があって楽しい。<大入>や<金千両>と書かれた楊枝箱も、景気がいい。職人技の変わり楊枝は額入りで飾られており、その何品かは商品化していた。記念に<鰻>と<櫂>を買う。江戸の歯ブラシ房楊枝も飾られていたが、これもぜひ噺の「明烏」のためにも商品化を、と願う次第である。こういう文章が、まさに小満んならでは。
「・・・・・・、なにを言ってやがンでい、てめンとこなんざアもう、二度とフタタビ」
「おいおい、その房楊枝をどうにかおしよ、歯磨きがポロポロこぼれて汚ねえな、おい・・・・・・」
甘納豆と共に、わが師八代目桂文楽十八番「明烏」の見せ場であった。
この楊枝の「さるや」は、今も営業している。
ホームページのトップ画面に「ドラえもんコラボレーション」楊枝が紹介されているのが、なんとも可笑しい。
「日本橋さるや」ホームページ
<大入>の楊枝箱を買って、小満んに差し入れしようかな^^
本書では、このほかにも小網町から「宮戸川」、小網神社、別名、稲荷堀稲荷(とうかんぼりいなり)のことから「髪結新三」のことにも触れている。
そこまで紹介すると、ほとんど引用することになってしまうので、日本橋からのご紹介、これにてお開き。
さぁ、これからバイトに行かなきゃ^^