ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』より(5)
2019年 08月 30日
感想などは、日曜の再放送の後に書こう。
ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』
このシリーズの最終回、五回目。
本書初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。
なぜ17世紀、一時は世界でもっとも鉄砲を保有していた日本が、その“飛び道具”を捨てることになったのか。
著者が指摘する五つの理由をご紹介。
①火器の統制がきかなくなってきたと感じる武士が大勢いたこと
どの位、武士が多かったかについて、こう書いている。
日本の武士団はヨーロッパのどの国の騎士団よりも規模が大きく、総人口のほぼ7~10パーセントをしめていた。豊臣政府は、1591年から人口調査を行ったものの、
侍を頭数の一つとして数えるのはその品位を貶めるものだとして武士を集計の手続きから除外したのだが、十九世紀の調査をもとに、16世紀末に約200万人、総人口のほぼ8パーセント、と試算している。
対照的にイギリスでは、1597年において諸侯60、騎士500、地方名士(スクワイア)ならびにジェントルマン5800で、それらの家族と合わせて騎士階級は総計3万で、総人口の0.6パーセントをしめるにすぎない。ヨーロッパのどの国をとっても、騎士階級が優に1パーセントを越すような国はなかった。ということで、仮想敵があまりにも多い状況において、「このままでは、統制がきかなくなる・・・・・」という危惧を、多くの武士が共有していたことが、第一の理由と指摘する。
あえて付け加えるなら、戦国の末期には、多くの武士に厭戦感が強かったと思われる。
戦うことに疲れていたはずで、鉄砲など火器の軍備拡張合戦への動機づけも低かったと察する。
②侵略しにくい自然条件を含め、外敵に対する国家的統合の維持は通常兵器で可能だった
加えて、ポルトガルやスペインが、日本を侵略しようとしたわけでもないし、秀吉の朝鮮出兵の記憶が残る朝鮮半島や明は、侵略することなど想像すらしなかった。
③刀剣が日本ではヨーロッパより大きな象徴的な意味をもっていた
これは、意外に強い理由かもしれない。
ペリンは、こう書いている。
まず日本刀は単なる戦いの武器たるにとどまらず、プライドの物的な表現、日本流に言うならば、「武士の魂」であった。著者はこの後、1607年に鉄砲鍛冶年寄四人が駿府に召出されて家康にお目通りを許され、帯刀まで許されたことを紹介している。
(中 略)
また日本刀は、封建ヨーロッパよりもはるかに重要な社会的意味をもっていた。帯刀の権利がなければ、名字されもてなかったのである。封建日本にあっては農民、町人は帯刀の権利もなければ、名字もなかった。ときには農民や町人が出世して武士身分を許されることがあった。これは名字帯刀の特権といわれた。
さらに日本の刀は通常の武器であるとともに代表的な美術品でもあった。
④キリスト教と商業に対する西洋人の態度への反動的な潮流の存在
ヨーロッパの商人についてのある日本の将軍の言葉として、次の内容が紹介されている。
「利害を好み、欲ぼけの者どもである。かような唾棄すべき輩にはいずれ天罰が下るであろう」注には、「Boxer,Christian Century,p245」とあるが、誰の言葉かは分からない。とはいえ、当時の大半の武士にとって、ヨーロッパの商人は、武士道からはかけ離れた極悪人に映ったことは察することができる。
⑤日本刀が、日本的美学に結びついた、飛び道具よりも品位の高い武器と考えられていた
“剣道”の名が示すように、そては、一つの哲学とも言えるだろう。
ペリンは、その具体的な事例として、日本刀どころか鉄砲についてさえ、“作法(形、道)”が厳格にあったことを紹介している。ニューヨーク公立図書館に保蔵されている、1595年に河上茂介が著した『稲富流鉄砲伝書』の図、火縄銃を撃つ場合の姿勢についてこと細かに書かれた図を掲載しているのだが、なんと、三十二枚の図のうち、十枚も掲載しているのだ。
まことに日本人は鉄砲についてさえ、できうるかぎりの上品さを保とうとした観がある。
私は、ペリンが挙げる五つの理由のうち、③と⑤に着目する。
そこには、日本人の美学や哲学が存在する。
美しくなければ、作法にのっとってなければ、道に反していたら、それは日本的ではない、ということなのではなかろうか。
さて、今の日本に、そういった美学や哲学は残っているのだろうか。
もちろん、徳川幕府が鉄砲、大砲の製造を制限するために鉄砲鍛冶を囲い込んだり、法的にも施策を進めたことも、大きな理由だが、著者ペリンは、日本人の美学、文化といった側面に強く魅かれたようだ。
その美学、文化は、時代を経ても不変なものではなかろうか。
そう思いたい。
これにて、このシリーズはお開き。
長々のお付き合い、誠にありがとうございます。