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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』より(2)


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ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』

 このシリーズ、二回目。

 本書初版は1984年に紀伊国屋書店から発行されているが、私が読んだのは、1991年の中公文庫版。副題は、「日本史に学ぶ軍縮」。

 前回、著者の日本語版への序文から、反戦、反核の強い思いがあることを紹介した。
 また、日本と日本人への深い思い入れなしに、この本は存在しなかっただろう。

 その背景には、著者自身の朝鮮戦争での従軍体験がある。

 「文庫版への序文」からご紹介。

 もう遠い昔のことになりますが、まだ若かった頃、私は日本の美しい自然景観のとりこになりました。それは、朝鮮戦争が勃発し、私が青年士官の身分で交替要員として戦地に派遣されたときのことです。そのとき、戦地に直接送られるのではなく、まず横浜近くに上陸し、そこから軍用列車で一路佐世保に向かいました。佐世保からは小型の日本製の軍艦に乗りかえて釜山に渡りました。釜山から軍用列車で前線に送られ、そこで新しい部隊に組みいれられて、戦闘に従軍したのです。


 朝鮮戦争と聞いて、18日に見た、NHKのBS1スペシャル「隠された“戦争協力” 朝鮮戦争と日本人」を思い出す。
NHKサイトの該当ページ

 通訳などで米軍の支援をするという名目で半島に渡った日本人が、実は、武器を渡され戦闘に加わっていたという事実は、衝撃的だった。

 話を戻す。
 ノエル・ペリンは、半島に渡る前に立ち寄った日本の記憶を記している。


 いまでも覚えているのは、横浜から佐世保までの三十時間位の鉄道の旅のことです。あれからずいぶん年月が流れましたので、やや誇張したところがあるかもしれませんが、それが横浜発の夜行列車であったこと、そして、翌日も乗りっぱなしであったこと、夏の夜が短かったとはいえ、汽車に乗っている間中、一睡もしなかったことなど、鮮明に覚えています私は、生まれて初めて眼にする日本の自然の美しい光景にすっかり魅入られ、眼の前につぎつぎと繰りひろげられる光景をどれも見のがすまいとしていました。段々畑と松の生えた山々は見事な調和を見せ、谷が随所にあり、その形状は変化に富み、ある峡谷には小川が流れ、別の谷で上流が深い峡谷になっていました。


 著者ペリンは、最後部のデッキに立ったままで、そういった日本の光景を見続けた。
 二、三時間ごとに警備兵が来て車内に戻るようにと注意されたらしい。

 私はこう答えたものです。
「もし、私がここに立っていることで、貴官に迷惑がかかるようなことがあれば、私はもうすでに五度も車内に戻るように注意されているのに、私がその警告に従わなかったと説明します。ですから気にしないでいただきたい。ありがとう、伍長」
 それは、いまから四十年も前のことですが、私が初めて軍規に従わなかった出来事でした(もっとも、そのときの私は警備兵よりも身分の高い中尉でしたから、なんということもなかったのですが・・・・・・)。それは同時に美しいものを大切にしようとするその後の生活の始まりともなりました。


 著者ノエル・ペリンは、小さな農場で牛を飼いメイプルシロップなどを作るなどの田園生活を送ったのだが、その生活を題材にしたエッセイ集も出している。
 その出発点が、朝鮮戦争に従軍する際に経由した日本で見た田園風景だった、ということか。

 それでは、本編にそろそろ入ろう。

 「初めに 世に知られていない物語」から。

 本書が物語るのは、ほとんど世に知られていない歴史上の出来事である。高い技術をもった文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古くさい武器に逆戻りする道を選んだ。そしてその国日本はこの逆戻りの道を選びとって成功した。この物語は、核兵器についての今日のディレンマー核が人類の輝かしい科学技術の進歩の象徴であると同時に、人類の絶滅の象徴でもあるというディレンマーにそのまま通用するわかではないにしても、類推をたくましくすれば、核兵器の廃棄という類似の事態を考える余地は十分にある。それゆえ、この話はもっとよく知られる価値がある。
 読者がこの物語を理解するに当たっては、日本史のほんのわずかな知識があれば十分である。

 この“日本史のほんのわずかな知識”、それほど、“わずか”とは言えない。

 日本人は、西暦八世紀頃から高い文化と技術ーとはいっても工業化以前の技術だがーをもっていた。その頃から数えて八百五十年あまり、日本はヨーロッパから完全に独立した発達をとげた。しかし日本の歴史にはヨーロッパの歴史と似たところがあった。というのはその間に日本は、ヨーロッパの騎士に似た甲冑に身を固めた武士のいる、まぎれもない封建社会を生み出したのである。日本人の武器のなかにはヨーロッパ人の武器に優るものさえあった。騎士道に似た武士道も存在した。複雑な宗教制度と多数の寺院をもち、その多くは、ヨーロッパで言えば聖フランシスのリトル・ブラザーズの平和主義の伝統というよりも、むしろかのテンプル騎士団の戦闘的な伝統に近いものをもっていた。日本人は莫大な富ももっていた。しかし、こと鉄砲については、これを持っていなかったのである。


 次回は、ようやく(?)鉄砲伝来のことについて。

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by kogotokoubei | 2019-08-21 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


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