圓生が語る、落語研究会の歴史(5)ー『江戸散歩』より。
2019年 07月 18日
三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
このシリーズ、五回目。
第一次落語研究会が、明治三十八(1905)年に始まり大正12(1923)年の関東大震災で終了するまでの18年間には、若手や中堅の噺家さん達も台頭し、中には抜擢されて研究会に名を連ねる噺家さんもいた。
当時の“若手”のことを、圓生はこう書いている。
当時、若手、若手といいましてあたくしの父親ですね、それが圓窓時代。それから大阪へ行って三代目圓馬になりました七代目朝寝坊むらく。こないだ亡くなった志ん生の師匠だった、その前の志ん生。本名鶴本勝太郎といいました。馬生から志ん生になったんですが、その他八代目桂文治になった人、本名山路梅吉といった、こういう人がもうみんな、ばりばり売り出して、聞いておりましても実にお客様に受けるし、うまいなと思う人達ですが、相当みな腕を上げてきた。第一次落語研究会が、どれほど権威のある会だったかが察せられる。
その時に、楽屋で幹部連中やまた先生方が、もうこの人達も相当にみんなよくなってきたから深いところへあげる・・・・・・深いところって、つまり幹部が二人あがりその間へ順々に入れて行くわけですね。交替で。それであとへ幹部が二人出るという事になっていた。次会からトリを取らしてもいいんじゃないかって事になった。
トリというのは一番最後へ上げる事です。じゃァこれと、これとこれと、これと、トリを取らしてみようという事に決定した。そこでみんなトリを取るようにと云った時にいっせいに手をついて、研究会のトリだけはどうぞご勘弁を願いたいといってあやまったんですが。これはどうも実に偉いもんだと思います。やはりいかにできても若手であって、まだまだその幹部には及ばざるところは多々あるわけなんです。しかしみんな人間ですから、自惚れはありましょう。俺はまずいと思ったら高い所へ上がって喋っちゃいられないんだから。だから各自自惚れはあっても、なおかつ自分の芸は分っている。だから研究会のトリ席にまわってどうなるかてェ事を考える。できないとは思わないでしょうけれども、研究会のトリだけは勘弁していただきたいと云っていっせいに断っちまった。
今の人間ならば「あァ。よろしゅうがす」てンんで、軽く引受けたでしょうけれども、やはりそれだけの芸に対する心掛けというものが昔と今とは時代も違い、変ったのかも知れませんが、なかなかやかましい会でした。
三代目の圓馬は、八代目文楽の芸の上での師匠として有名。三代目金馬も、多くの噺を伝授された。その圓馬でさえ、朝寝坊むらく時代、研究会のトリだけは受けることができなかった、ということか。
圓生が名を挙げた三代目圓馬や四代目の志ん生、八代目桂文治は、第一次落語研究会の準幹部に名を連ねていた人。準幹部の中で、圓生は名を挙げていない人に、三代目蝶花楼馬楽がいる。岡村柿紅の推薦で抜擢され出演し大絶賛された。一部の新聞は「名人馬楽」とまで誉めた。しかし、彼はそのチャンスを生かすことなく、四十歳台で病のため旅立った。馬楽の人生の頂点は、落語研究会に出た時だったかもしれない。
さて、紹介した文の後、圓生はこう続けている。
まあそんな思い出がこの宮松の研究会にはずいぶんありました。こりゃ大正十二年八月まであって、あたくしもその研究会へずっと行ってたわけですが、それが九月に大地震があって、そしてこの第一次落語研究会というものがなくなります。
ということで、そろそろ、第一次から第二次への“替り目”である。
とはいえ、関東大震災のダメージは大きく、復興の声は、昭和も少し経ってからのこと。
本書の著者、六代目圓生も、大いに関わることとなった。
再興落語研究会 第二次は先代圓生、父親の希望でわたくしが八方先生がたにお願いしてやっと再興したのが、昭和三年三月十一日、茅場町薬師内宮松亭で開催、第二回より神田立花亭に移り、東宝に変り、さらに日本橋倶楽部(当時日本橋区浜町河岸)、それも空襲はげしきため、昭和十九年三月二十六日研究会臨時大会、お名残り公演、会費金二円税共。
この昭和十九年三月二十六日の最終回の出演者が、紹介されている。
代数と本名も記されている。
春風亭柳枝を、七代目、としているには八代目の誤りと思うので修正したうえで引用。
この時の出演順
桂文雀(現橘家圓蔵 市原虎之助)
柳家小三治(元協会事務員 高橋栄次郎)
船勇亭志ん橋(故三代目三遊亭小圓朝 芳村幸太郎)
桂右女助(故三升家小勝 吉田邦重)
春風亭柳枝(故八代目 島田勝巳)
三笑亭可楽(故七代目 玉井長之助)
三遊亭金馬(故三代目 加藤専太郎)
三遊亭圓生(著者 山崎松尾)
三遊亭圓歌(故二代目 田中利助)
桂文楽(故八代目 並河益義)
柳家小さん(故四代目 平山菊松)
以上をもって一時閉会となった。
昭和三年から十九年まで16年間も続いた第二次落語研究会、その開催にご本人も奔走したようなのだが、この本で書かれているのは、これだけ。
すぐ後、第三次について、こう書いている。
第三次はあたくしは知らなかった・・・・・・。それはあの満州へ行きましてね。志ん生とあたくしと二人帰れなかった。その留守中に第三次落語研究会というものはできたんでございます。ところがこれは短命にして、五回か六回やってつぶれてしまった。
だいたいこの落語研究会というものはこの人と、この人を、というんで初めから人選をして、ちゃんとまじめに噺をする人、本当の落語というものをやるべき本筋のものというのか規定でございます。
ところが第三次の時にはそうではなくして、そういうふうな初めから制限をするてェ事はよろしくない。一般の噺家を入れてこそ、本来の落語研究会であるからその制限をして、初めから差別をしてやるてェ事はかしからんことであるという・・・・・・。
論法はたいへんにお立派なんですがね、駄目なんです。誰でも彼でも出演(で)られるという、それでは本来の研究会にはならないわけで。だからどこへでもこれはあてはまるわけなんですね。政治でも、それから芸界でも。一般に平等に、こうこうやったらいいという・・・・・・いかに論法が立派であっても、やっぱり一つのちゃんと固まったもの、芯がなくちゃいけないんじゃないかと思います。
ですから第三次落語研究会というものは、五回か六回やったけどお客様もこない。ま、云っちゃ失礼だが、その人選は落語研究会へ出る噺家じゃないてェのが出演(で)ていたわけなんです・・・・・・。それがためにつぶれてしまった。
ということなのだが・・・・・・。
Wikipediaの「落語研究会」で確認すると、第三次は、会長に久保田万太郎、参与に正岡容と安藤鶴夫の名が並んでいる。顧問には、渋沢秀雄も登場。
Wikipedia「落語研究会」
しかし、昭和21年2月から8月までと、たしかに短命であった。
立派な論法が道を誤らせることがある・・・というのは、なかなかに奥深い指摘ではなかろうか。
短命だったのは、圓生が指摘するがごとく、“芯”がなかったからか。
その“芯”となるべき人が、満州に行っていて不在だったから、という声が、この文章からうっすら聞こえてもくるなぁ。
というわけで、次の最終回では、第四次と第五次についてご紹介。