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噺の話

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圓生が語る、落語研究会の歴史(1)ー『江戸散歩』より。

 三遊亭圓生に『江戸散歩』という著作がある。

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 初版は昭和53年、あの騒動がある直前に、集英社から上下二冊の単行本として発行された。

 私は、昭和61年の朝日文庫版(上の画像)を持っている。


 なんと、三年前、小学館から、紙の書籍と電子書籍を同時発行する「P+D BOOKS」で再刊されていた。
三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)

 この本、必ずしも土地や建物だけのことではなく、縁のある落語のこともいろいろ書かれていて興味深い。

 それらの貴重性もあって、P+D BOOKS化されたのかとも思う。

 その中で、伝統ある落語研究会の歴史を、自分が見聞した内容を含め書かれている部分をご紹介したい。

 なぜ、落語研究会のことか、というと・・・・・・。

 今、TBSが主催している第五次落語協会が、大きな曲がり角にきているように思うからである。

 TBS落語研究会は、昭和43年、今年三月十一日に亡くなった川戸貞吉さんの発案で始まった。
 川戸さんの訃報に接して、著作からの引用を含め記事を書いた。
2019年3月13日のブログ

 昭和33年に第四次が終了していたから、十年ぶりの再開になるが、その運営形態は、大きく変わった。

 それまでのように落語家が会の運営にタッチすることのない、テレビ局主導の会のため、プロデューサーの力量が物をいう会となった。

 名プロデューサーの言われた白井良幹さんのアドバイスで、桂歌丸さんが圓朝ものを演り始めたことは、以前、『歌丸 極上人生』から紹介した。
2019年5月19日のブログ

 その白井さん亡き後、何人かのプロデューサーが携わってきたが、白井さんの下で薫陶を受けた今野徹さんが旅立ってから、この会の将来は結構危うくなっていると思う。

 居残り会仲間の数名の方は、大変な努力をして、年間会員となったことをお聞きした。
 私も、そのご縁で二度聴く機会があった。
2012年11月1日のブログ
2014年11月26日のブログ

 今、その時の記事を読み返してみて、あまり楽しんでいなかったことが、分かる。

 TBSは、毎年、欠員となった方の席の年間会員権を売り出しているが、年々その席数は増えている。居残り会で会員をやめた方もいらっしゃる。

 もちろん、ご高齢によるものもあるが、会そものものに魅力がなっくなってきたことも、要因の一つに違いない。

 演者の選定とネタ選びに「えっ!?」「おやっ!?」と思うことが少なくない。

 そこで、あらためて落語研究会の歴史を確認するには、実に相応しい内容を、圓生は残してくれたことを思い出したのである。

 それでは、「日本橋」の中での記述からご紹介。

 常磐木倶楽部 それから大震災までは、あの榛原(はいばら)という紙屋さんは橋のちょいど前のところにございました。となり・・・・・・角が西川という蒲団屋さんで。そのとなりが榛原。そのとなりに常磐木倶楽部という貸席。ここで落語研究会というものをばやりました。明治三十八年の三月でございますが、これが第一回で。
 当時落語というものが非常に乱れてきた。というのは、初代と称します、これは本当は三代目になるんですが、あまりに人気があり、明治時代にこの、圓遊という人が落語界を風靡いたしました。
 三遊亭圓朝というような大名人ができまして、その弟子でございますが明治調で、非常に時代に合った、噺をくずして面白くした人ですが、けれども圓遊調は落語本来のものではない。けれども圓遊という人はそれだけ功があって、圓遊は圓遊の値打ちがあるわけですが、ところがその弟子なんかは圓遊のただ本当の物真似にすぎないというので・・・・・・。ただし、これがまた時代ですね、物真似でも何でも当時はうけたわけなんです。
 (中 略)
 それを当時、三遊亭圓左といいいまして、やはり圓朝の弟子でございますが、この人は非常な芸熱心で、どうかして本当の落語というものをば存続させるのは今である。時期がおそいてェと落語というものはこんなだらしのない、下らないものかというように世間から馬鹿にされて捨てられてしまってからではもはやじたばたしてもしょうがない。今ならばまだいい噺家も残っているんだから、ここで立て直そうというんで。当時、速記者というものがございまして。今でもまあ速記というものは議会やなにかで使います。落語を初めて速記というものに掛けて、口演したのは圓朝だそうでございます。それからまァおいおいに速記をやる者もふえましたが。
 今村次郎という、この方はずいぶん古いかたでございまして落語、講談界に対して隠然たる勢力を持っていた。というのは、今の講談社でしょうな、そのほか本屋さんの大きいところ・・・・・・ま、落語、講談なんてえものを掲載する雑誌、そういうところの権力はこの今村次郎という人が一人で握っていたわけで、だから噺家が真打になりますと必ずこの今村さんのところへ、まず顔出しをしなくちゃいけない。

 今村次郎は、当時、講談落語の世界で最も有名な速記者で、『講談倶楽部』に掲載される原稿は彼から提供されるものが少なくなかったし、もともと浪花節を載せていない『講談世界』にいたっては、掲載原稿のほとんどすべてを彼に頼っていたとのこと。

 この今村次郎のご子息が、『落語の世界』などの著者、今村信雄。

 さて、圓遊人気に落語の将来を危惧する三遊亭圓左は、その今村次郎を訪ねる。

 この人にまず頼んで落語研究会・・・・・・こういうものをやってみたいという話をした。それならばというので、当時批評家でありました岡鬼太郎、森暁紅、石谷(いしがや)華堤という、この三人の先生がたに話をしたところが、「まことに結構である。このままではいかんからぜひとも、ちゃんとした噺を残すようにしてもらいたい。じゃあ私たちが顧問になろう」というわけで、三人が落語研究会顧問。今村次郎が万事一般の事務のこと、会計から何から引きうけようという事でできましたが・・・・・・これが明治三十八年でございました。

 明治三十八年、圓生は、まだ五歳。

 さて、第一次落語研究会の始まりなのだが、どんな運営形態だったのかなどについては、次回。

 
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by kogotokoubei | 2019-07-12 12:36 | 落語の本 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


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