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噺の話

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長男、金原亭馬生が語る、志ん生(4)ー岡本和明著『志ん生、語る。』より。

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 このシリーズの最終四回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。

 志ん生の師匠は・・・ということではいろんな人の名が登場するが、馬生は、こう語っている。

 オヤジさんの師匠は“イカタチ”の圓盛がいて、小圓朝がいて、鶴本の志ん生(四代目)、三語楼(初代)がいたわけなんですがオヤジさんが一番影響を受けたのは、“めくら”の小せん(初代)だそうですね。
 あたしは知らないけれど、速記を読むとよくわかる。うちのオヤジさんに、
「めくらの小せんはどういうしゃべりかたをしてたの?」
 って聞いたら、
「俺と同じだよ」
 って言ってました。
「女郎買いってのは難しいもんでしてな。寄席ぇ終わって、うちへ帰って、茶漬けを食う。腹が減っちゃあ何もできませんからな。で、表へ出ると灯りがある。人力があるけど高いから尻ぱしょりして歩きだす。女郎買いか、火事場へ行くんだかわかりませんな・・・・・・」
 って調子が同じなんです。で、そう演(や)っていって『とんちき』なんかに綺麗に入っていくんですよ。だからオヤジさんは、柳家小せんを襲名するべきだったくらい似ていたらしんです。鶴本さんとは似てなかった。

 “二十七歳で腰が抜け、三十歳にして失明し、三十七歳で没した“”初代柳家小せんについては、『居残り佐平次』を中心に以前書いたことがある。
2014年1月23日のブログ
 馬生は、憧れの圓喬とともに影響を受けたもう一人が、初代小せんであり、当時仲間内で高く評価されていなかった小圓朝の弟子だったことは、あまり言わなかったと語る。
 
 しかし、圓喬や小せんを真似るだけではなかった。
 マクラだって、自分なりの工夫をすることに努めていた。馬生が語る。

 うちのオヤジさんは、マクラは勉強してましたよ。『江戸小咄』の本を宝物みたいにして、そいつを読んじゃあクスグリを拵えてたんですよ。で、お客さんも待ってるわけですよ。例えば
「えー、カストロなんてえ人がいまして、焼酎の親方みたいな名前で・・・・・」
 こんなことは普通の人が言ったって、おかしくも何ともないんですよ。でも、、引っくり返るんですから。お客の方も<面白んだ。面白いんだ>って先入観で聞いてますからね。だからそれだけで笑うっちゃう。

 この“カストロ”のマクラ、私の持っている音源でも聴いている。
 
 当代の噺家さんで、マクラがマンネリ化している人が、少なくない。
 一つのネタにまでなっているのならまだしも、つまらないマクラを聴くと、本編を聴く前に、がっかりしてしまう。
 ネタのみならず、名人と言われる地位においても志ん生がマクラを磨いていた了見も、見習うべきだろう。

 馬生も、そんな志ん生を見習っていたのだが。

 最初の頃はあたしもオヤジさんのような感じの噺をしていたんですが、途中でこれじゃあいけないってんで、変えたんです。まあ、そう思ったのは二十年くらい前なんですがね。そうしたらオヤジさんが、
「何だ、お前の噺はちっとも面白くねええじゃないか」
 って言うんです。
「これからはお父っつぁんと違う演りかたをしないと、俺、駄目になっちゃうから・・・・・・」
「何言ってんだ。俺が演りゃあ客がわーっと笑うんだから、俺の言う通りにやれっ」
 もう喧嘩別れになっちゃってね。今、どうやらこうやら食べられるのは、あの時オヤジさんとああなったけど、自分なりに変えたからだと思うんです。

 たしかに、馬生は、芸の上では父から離れたからこそ、独自の芸風を築くことができたんだろう。

 それは、持ち味の違いなどもあるが、父とは好対照な馬生の“理詰め”の性格にもよるのだと思う。
 たとえば、『火焔太鼓』について馬生はこう語る。
 あの噺は全然でたらめな噺。一文で買ったんだからね。だいたい“火焔太鼓”というようなものを市で買ってこられるわけがない。それに“火焔太鼓”ってのは大きいんですよ。ヒョイヒョイと担いで行けるようなものじゃないんです。オヤジさんはそんなことはいっさい構わないで演っちゃう。こっちはそのまま演ったら大変だと思ってね。だからできるだけオヤジさんとは違う噺を選んで演ってたんです。

 この馬生の“理詰め”の姿勢は、弟子たち、なかでも、むかし家今松に継承されていると思う。
 それは、たとえば師匠の『大坂屋花鳥』を拡大して語る『嶋鵆沖白浪』の花鳥が島流しになった舞台を、作者談洲楼燕枝の創作三宅島ではなく、事実に基づき八丈島に改定するなどが物語る。

 今回、この本を再読して、あらためて感じたのは、同じ人間同士に、師匠と弟子、そして父と子という別の関係が内包している難しさだ。

 十代目金原亭馬生にとっての師匠・五代目古今亭志ん生と、美濃部清にとっての父・美濃部孝蔵との関係の、なんとも複雑なパラレルワールド、とでも言おうか。

 きっと、志ん生には、それほど気にしないことだったのだろうが、子の馬生にとって、それは、なかなか割り切れないジレンマが一生つきまとってような気がする。

 甘えたい時に甘えることができず、頼りたい時に父がいなかった、馬生。しかし、周囲からは、親の七光り、という視線が絶えず感じられたのだろう。

 短い生涯だったのは、そんな彼の精神的な苦難が影響しているような気がしてしょうがない。
 
 さて、長男馬生が語る志ん生のシリーズは、これにてお開き。
 
Commented by saheizi-inokori at 2019-06-19 16:57
マントを着て鈴本の踊り場にいた馬生を思い出しました。
Commented by kogotokoubei at 2019-06-20 08:36
>佐平次さんへ

ほう、そんな光景に遭遇されていましたか。
鈴本、もうじき夏祭りですね!
Commented by 寿限無 at 2019-06-21 20:29 x
ご無沙汰しております。
ところで、馬生は落語家になりたかったのでしょうか?
どうだったのでしょうかね。
Commented by kogotokoubei at 2019-06-21 21:28
>寿限無さんへ

お久しぶりです。
予科練志望でしたが大病をして、落語家の道に入ったわけですが、きっと絵描きになりたかったのではないかと、思います。
でも、そんな余裕はなかったでしょうからね。
Commented by 寿限無 at 2019-06-22 10:20 x
そうですよね。
馬生は「自分は絵描きになりたっか」ということを
どこかで読んだか、聞いたかしたいと思いますが、
どこだったか思い出せないでいるのですよ。
Commented by kogotokoubei at 2019-06-22 20:01
>寿限無さんへ

もし、予科練に入っていたら・・・と思うと、馬生は決して長生きとは言えませんが、しっかり名前も残し、多くの弟子を育てることができたのですから、幸福な一生だったのかもしれませんね。
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by kogotokoubei | 2019-06-19 12:47 | 落語の本 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛