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噺の話

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長男、金原亭馬生が語る、志ん生(2)ー岡本和明著『志ん生、語る。』より。

 今夜の「いだてん」は、志ん生一家の引っ越し、そして、関東大震災・・・・・・。

 大震災と志ん生のことについては、以前書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2012年9月1日のブログ

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岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)

 さて、このシリーズの二回目。

 岡本和明著『志ん生、語る。』(アスペクト)は、平成19(2007)年の発行で、内容は平成6(1994)年から発行が始まった『これが志ん生だ』(三一書房、全十一巻)の月報の中から選んで編まれている。
 副題が「家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔」とあるように、志ん生 “が” 語るのではなく、志ん生 “を” 語っている本。
 
 前回は、馬生が、父と母の生前中に、六代目志ん生は弟の志ん朝に継がせると約束していた話をご紹介。

 さて、今回は。

 馬生にとって、父はどんな存在だったのか。

 この聞き書きでは、珍しくこんなことを言っている。
 この頃よく<つまんねえなあ・・・・・・>と、考える。とにかく人の面倒ばかり見てきた。物心ついた時から親の手伝いでしょ。それから戦争に入って、咄家になって、・・・・・・咄家も一番悪い道をずーっと歩いてきて、やっとどうにかなった時には、志ん生の倅ってことで、つまり、“咄家の倅いじめ”ってのがあってね。志ん朝はあたしが防波堤になったから、まあ、ぶつからなかったんですけどね、それをやられて、ようやっと振りきってやってきたんです。

 これだけ泣き言を言うのは、珍しいのではなかろうか。

 昭和三年生まれの馬生。
 笹塚の家を夜逃げ同然に引っ越して業平の“なめくじ長屋”で暮らすようになったのが二歳の時だ。
 予科練を志していたが、腸の病気で大手術を受けることになり、断念。 落語家になろうと思い立って昭和17(1942)年、十四の時に父に入門し、四代目むかし家今松を名乗った。ちなみに、当代は七代目。
 当時は落語家が足りなかったため、二ツ目からのスタート。昭和十九(1944)年頃、初代古今亭志ん朝と改名。昭和二十(1945)年四月、終戦直前になって父・志ん生が満州慰問に出てしまったため、苦労を重ねた。 
 だから、志ん生没後、父について語ることには、積極的と言えなかった。

 オヤジさんの話をするってのは本当は嫌なんです。それはね、志ん生というとみんなが綺麗な印象を持ってる。それをどうしたって一つづつはがしていくことになるでしょ。
 まあ、あたしなんか志ん生を偲ぶってのを何十回とやってきた。だから、
「もう勘弁してぃださいっ。うちのオヤジさんは名人だったんです。で、非常に楽しい芸人だったんです。それでいいじゃないですか。みなさんが頭の中で描いている志ん生像が一番なんです。それぞれがこしらえてる志ん生像がある。それを何もほうぼうからはがすことはないんだから、もうよしましょうよ」
 って今まで言ってきたの。

 志ん生を高座や音源でしか知らない人に、その家族がイメージを壊しかねない姿を暴露することへの遠慮、気配り、ということもあろうが、馬生にとっては、長男として抱く父、美濃部孝蔵への複雑な思いもあっただろう。

 馬生、いや、美濃部清にとって、父の孝蔵とはどんな存在だったのか。

 まあね、うちのオヤジさんは内側だとちっとも面白くないんですね。面白くないからこそ、高座が面白かったんですよ。楽屋でやたらと面白い人がいるんですよ。楽屋でやたらと面白いんだけど、高座に上ると面白くないの。うちのオヤジさんなんて楽屋でブスっとしている。前座に、
「何が出てるぅ?」
 って聞いて、で、
「・・・・・・うん・・・・・・」
 って言って、高座に上る。そこで一席演って、下りてきて、次へ行っちゃう。皆さんが期待するようなことは何もないんです。これだけの話だからね。

 それでも、家では親子の会話だってあっただろうにと思うのだが、それについては、次回。
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by kogotokoubei | 2019-06-16 21:05 | 落語の本 | Comments(0)

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by 小言幸兵衛