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「なつぞら」の川村屋のモデル、新宿・中村屋の創業者のこと(2)ー森まゆみ著『明治東京畸人傳』より。


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森まゆみ著『明治東京畸人傳』(新潮文庫)
 その本は森まゆみさんの『明治東京畸人傳』。

 平成八年単行本、平成十一年の文庫化。森さんの住んでいる‘谷根千’近辺に縁のある人々について書かれた本。

 この本から、新宿・中村屋の創業者、相馬愛蔵と黒光夫妻について二回目。

 明治三十九年の暮れ、本郷で居抜きのパン屋を買い、屋号もそのまま中村屋として、なんら経験もないまま、二人が商売を始めた。

 研究熱心な愛蔵は理づめで商売を考える。先代中村萬一氏はなぜ失敗したのか。検討して次のような戒めとした。
  営業が相当目鼻がつくまでは衣服は新調しないこと。
  食事は主人も店員女中も同じものを摂ること。
  将来どのようなことがあっても、米相場や株には手を出さぬこと。
  原料の仕入れは現金値引きのこと。
 書生あがりのパン屋ということで、雑誌社の取材もあった。同じく女学生あがりの妻良は「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」がいえず、家の近くの太田ヶ原(旧太田摂津守邸跡)でひそかに声を出して練習したという。一高の茶話会の注文もあって商売は順調にのびていく。

 相馬愛蔵という人、なかな骨太な男だったようだ。

 この人は、古今亭志ん生が生れた明治23(1890)年に東京専門学校を卒業すると同時に北海道に渡り、札幌農学校で養蚕学を学んだ。
 その後、安曇野に帰郷し蚕種の製造を始め、『蚕種製造論』を書いて注目されたとのこと。
 また、禁酒会をつくって、地元の若者にキリスト教と禁酒を勧めたり、村に芸妓を置く計画に反対して廃娼運動も行うなど、社会運動家の顔も持つ。

 個人的には、その潔癖な姿勢に必ずしも好感が持てるわけではないが、自分の哲学を持ち、世間の風潮に染まらない姿勢は、見習うべき点だと思う。

 引用を続ける。
 愛蔵は「士農工商」の身分秩序や「うまくごまかして儲ける」という商売道に反抗し、「人格と道徳」を商売の基礎においた。リベートやコミッションの要求は拒否し、客に対しても対等に接し、客のわがままは許さなかった。店員を芝居や相撲につれていくときはかならず一等席とし、卑下した気持ちにさせなかった。禁酒運動に参加したくらいだから、もちろん店には酒類は置かない。こんなふうに商売を近代化したのである。

 こういった経営者、そうはいない。

 特に、飲食業でこのような経営方針を掲げることは、実に稀なことだと思う。

 今日の“ブラック”といわれる飲食業界のトップに、相馬愛蔵という経営者のことを知って欲しい。

 愛蔵、『私の小売商道』という文の中でこんなことを書いていると、森さんが紹介している。

「すべて日本人の弱点として、アメリカやイギリスを真似て得意がると同様に、地方ではやたらに『東京を真似る』ので地方の特色を失って行く。封建時代は地方地方の名産がまことに特色があり、如何にもその土地らしいにおいがして、ちょっと旅をしてもどんなに趣き深いことであったろう。それが現在では日本が一律に単調化し、平面化しますますその味わいを失って行く。文明、人物、みなこの名物の例に異らずである」

 昭和27年に書かれたもの。

 なお、『私の小売商道』は、青空文庫で読むことができる。
青空文庫・相馬愛蔵『私の小売商道』

 さて、愛蔵の経営哲学を土台にし、中村屋はどんなお店になっていくのか。

 さて本郷の中村屋は間口三間半、家賃十三円、一日の売上げは店売り八円、配達と卸売りで五円、合計十三円。つまり月の家賃は店の一日の売上げと同額なのが、商売の基本と愛蔵は考えた。そして三年目に、アンパンのあんをクリームに替えたクリームパン、ジャムとクリームに替えた「クリームワップル」を売り出して大当たり。そのため人手が目に立って、税務署のにらむところとなった。このとき売上げを正直に申告したため、また大変な税金を払わなくてはならなかった。
 中村屋は、日露戦争後の明治四十年、新開地の新宿に支店を出し、そちらを本拠地としていく。翌年、安曇野時代からの夫婦の友、荻原守衛(もりえ)が、ヨーロッパから帰り、新宿角筈(つのはず)にアトリエを建て毎日中村屋に通う。またその関係で中村彝(つね)、中原悌二郎、戸張孤雁(こがん)、柳敬助ら、新進美術家たちが中村屋に出入りするようになり、黒光も愛蔵も彼らを助けた。しかし四十三年までは、住いは本郷団子坂坂上であったようだ。

 この後、黒光は一存で娘俊子を亡命者ボーンに縁づけたことなどとともに、やや周囲に誤解を与える人物でもあったことが紹介され、森まゆみさんは、こう書いている。

 黒光は何か心に大きな空白感を抱いていた女性のように思われる。満たされぬものをつねに外に向う情熱としていった。
 (中 略)
 理知的で寛大な愛蔵、情熱的で唯我独尊の黒光。まさに反対だった。黒光の方がずっと有名だが、私はじつは愛蔵がエラかったのではないか、と思っている。

 “まさに反対”だったから、良かった、ということでもあろう。

 愛蔵は、今日の日本が、ますます一律に単調化、平面化が進んでいる状況を見たら、いったいなんと言うだろうか。

 昭和29(1954)年に、愛蔵は84歳で亡くなり、後を追うかのように、その翌年、黒光は79歳で旅立っている。

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by kogotokoubei | 2019-05-24 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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