名プロデューサーからの、無茶ぶりー『歌丸 極上人生』より(4)
2019年 05月 19日
『歌丸 極上人生』
『歌丸 極上人生』は、最初は平成18年に、うなぎ書房から『極上 歌丸ばなし』として発行され、平成27年に加筆・修正の上で、祥伝社黄金文庫で再刊。
この本からの四回目。
次第にホール落語会への出演が増えてきた歌丸。
そんな時期、あるプロデューサーからの“無茶ぶり”が、あった。
三吉演芸場の独演会を始めてからは、どんどん古典のほうへ傾いて行きまして、そのうちに圓朝ものに手を染めることになるんですが、その転機になったのが、平成六年七月の落語研究会でやった『栗橋宿』です。
これは、前にもちょっとお話が出たTBS『落語研究会』の白井良幹さん、あのかたにやれって言われたんです。それまで白井さんがあれやれ、これやれって言ったことはありませんでした。ただ出てくださいっていうだけで、出し物はあたしのほうで、じゃァこれやりましょうって決めてたんですけど、このときから、いろいろ出し物の注文が来だしました。
TBSの名プロデューサーと言われた白井良幹(よしもと)さん。
その後を継いだのがイーストの今野徹さんだった。
入社三年目から今野さんは白井さんのアシスタントプロデューサーを務めたが、2017年12月に五十代の若さで旅立ち、さて、今は誰がプロデュースをしているのかは知らない。
白井さんの無茶ぶりのことを続ける。
一番初めに、いきなり持ってこられたのが、圓朝作『怪談牡丹燈籠』の『栗橋宿』・・・・・・あたしはね、それまで圓朝ものはやったことはないし、まして、圓生師匠があれだけ得意にしていらしたものですから、とてもじゃない、勘弁してください、できませんって言ったんですよ。そしたら、できないって言ってちゃなんにもできない、できるできないはともかくも、やってごらんなさいって、前に圓生師匠が研究会でおやりになった『栗橋宿』のビデオテープを、無理矢理押しつけられちゃったんです。
白井さんだから出来たことなのだろう。
さて、名プロデューサーからのリクエストにどう応えたのか。
あたしは、研究会でやるために地方で稽古したってのはこのときだけですね。地方の会で四、五回やりましたかね、それである程度固めてから、本番にぶつけたんです。
これで思い出すのは、以前は柳家権太楼なども、落語研究会の前の落語会では、研究会のネタが多くなること。
それだけ研究会の価値も高かったと言えるだろうが、今日では、はたしてどうだろう。
出演者の顔ぶれやネタを眺めて、時代の変遷を感じるのは私だけではないだろうと思う。
今も続く歴史あるホール落語は、大きな過渡期を迎えているように思う。
さて、引用の続き。
研究会で初めてやったときには、まず、終わってほっと一安心したってのが、正直なとこでしたね。あとで自分のビデオ見て、悪いところもずいぶんありました。でも、まァなんとかなるんじゃないか・・・・・・と思って、それから、その年の八月中席の国立演芸場ですね、あすこは昭和五十七年ころからずっと、八月中席は、あたしがトリを取らしてもらってますんで、十日間、毎日『栗橋宿』を出して勉強させてもらいました。ほかでも時どき出してみて、いくらかずつは自信らしいものがついてきましたけど、まさか、これがキッカケで、『牡丹燈籠』を全部やるようになろうとは思いませんでしたね。
白井さんの無茶ぶりが、桂歌丸という噺家さんに、大きな芸の引き出しをつくることになったわけだ。
この本には、聞き書きをした山本進さんとの対談も掲載されているのだが、その中で、柳家小三治の『小言念仏』も、白井さんによる研究会のための無茶振りが最初らしい。
今日、そんな無茶ぶりが許される人も、それを生かすだけの噺家も、いないような記がするが、はたしてどうなのだろうか。
その後の歌丸の圓朝作品への挑戦については、次回。