志ん生、戦前の速記が物語る創作力(1)-矢野誠一著『志ん生のいる風景』より。
2019年 04月 26日
私は、若い人も含め、ドラマをきっかけに古今亭志ん生という稀代の噺家さんのことを知る人が増えることは、良いことだと思っている。
拙ブログでも志ん生のことは何度か書いてきた。
しかし、持っている本から考えてみると、まだまだ紹介し足りないなぁ、などとも思う。
あのドラマは、あくまで実在の人物をモチーフとしたフィクションとうたっているので、やや誤解を招くな内容もないわけではない。
また、あのドラマでは描かれることのない一面も数多くあると思う。主役じゃないんだし^^
ということで、今回再読した本の中からご紹介。
志ん生は『火焔太鼓』などを代表として、元々ある噺を自分なりの工夫で磨き上げ代表作に仕上げる能力が高しい。
そして、その創作力は、戦前、まだ売れる前から発揮されていたことを、ある本から紹介したい。

矢野誠一著『志ん生のいる風景』
矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』は、初版が昭和58年の青蛙房刊、昭和62年に文春文庫で再刊。私はこの文春文庫を読んでいる。
なお、今年、河出文庫でも発行されたが、「いだてん」の影響だろう。
「曙光がさす」の章から、矢野さんがある落語集の解説を引き受けたことが書かれている。
1981年(昭和56)の、たしか六月頃ではなかったか。突然という感じで、講談社文芸局の駒井皓二さんから電話があった。「お目にかかって、相談したいことがある」というのだ。駒井さんがまだ「小説現代」だったか、「現代」であったか、とにかく月刊誌の編集部にいた十数年前に仕事をさせてもらっていらいの久方振りの電話であった。なお、この全集の一部は、2013年の講談社学芸文庫から『昭和戦前傑作落語選集』として発行されている。
有楽町の喫茶店で落ちあって、とにかくはなしをきいた。こんど講談社で、『昭和戦前傑作落語全集』というのを全六巻の構成で出すのだが、その全巻解説をやらないかというのである。この全集は、1926年(昭和1)から1941年(昭和16)まで、いわゆる昭和戦前期に刊行された講談社の雑誌「講談倶楽部」「重城倶楽部」「キング」「富士」が掲載した落語の速記六百二十篇のなかから、すぐれた口演を選りすぐって復元しようというもので、すでにリストアップされた案がコピイになっていた。
さて、矢野さんは、芸の記録という意義のみならず、「まったく別種の落語」としての存在意義があると考え、この全集の解説を「一も二もなく」引き受けた。
『昭和戦前傑作落語全集』の全巻解説という役目を、その場で引き受けたについては、もうひとつ理由がある。この全集に、古今亭志ん生の速記が二十一本も収録され、柳家金語楼の十八本、三代目三遊亭金馬の十六本をしのいで断然トップをしめていたからである。
この解説を引き受けたときすでに、僕は少しずつ古今亭志ん生について書き始めており、まったくといっていいくらいに資料的な文献のとぼしい五代目古今亭志ん馬、七代目金原亭馬生、そして五代目古今亭志ん生を襲名するという、「昭和戦前」期におけるこのひとの仕事ぶりに、より以上の関心があった。
志ん生は、昭和五年に笹塚から、あの業平の“なめくじ長屋”に引越し、この年だけでも、柳家東三楼から柳家ぎん馬、そして柳家甚語楼と名を替えている。
古今亭志ん馬を名乗ったのは、昭和七年。
金原亭馬生の七代目になったのが、昭和九年。
改名の理由は、半ば冗談半ば本気で借金取りから逃げるため、と語る時代。
その時代の高座の記録に出会った矢野さんの喜びが察せられる。
また、当時、雑誌に速記が出る、ということについて、矢野さんは次のように書いている。
寄席へ出るだけでおのれの生活をまかなっていた落語家がそう大勢はいなかったであろうことも、昨今の演藝事情とさしたるちがいはなかったはずで、ラジオに出ることや、雑誌に速記の載ることが、贔屓客の座敷と同様の重さを持っていた。
つまり落語家にとって、「売れている」ということは、何軒もの寄席をかけもつことばかりはなくて、ラジオに出たり、雑誌に自分の速記が載ることでもあったのだ。
戦前、改名を続けていた時分において、高座の速記が載ることに関して、志ん生が特別の思いを抱いていたはず、と矢野さんは洞察する。
その矢野さんが解説を担当した本のネタの前に、志ん生の戦前の記録に関する、あの方の文章を引用。
正岡容に、『増訂明治大正昭和新作略史』という文章があって、そのなかの昭和の落語家による新作落語の動きにふれた部分に、志ん生についての記述もある。
<古今亭志ん生のしん馬時代、「電車」「夕立勘五郎」の作があり、新体制以後「館林」を改作して、侠客とやくざものの解釈などを盛り込んだ一作がある。(題名を失念した)「電車」は幼児を枷にインチキな乗り方を試みる男の可笑しさ、「夕立勘五郎」は田舎廻りの訛りだらけのの浪曲師の素描である。
「電車」は譲り受けて故柳枝も演じたが、貧乏臭いこすっからさうな柄がしん生の方がピッタリ嵌って可笑しかった。柳枝が此を放送したときは左翼思想横行期で車掌たちから忽ち抗議を申込まれた。>
志ん生に、いうところの新作があるというはなしはあまり知られていないから、1942年(昭和18)に書かれたこの文章におどろくむきがあるかもしれない。
「電車」についての記録は残っていないようだが、矢野さんは当時流行った権太楼の「満員電車」や三代目柳好の「電車風景」と同工異曲だろうと察している。
かたや、「夕立勘五郎」は、初代の馬の助もしばしば高座にかけており「あれはおやじの作なんです」と言っていたらしい。
今でも、しっかり古今亭に残っていて、私は志ん輔のこの噺を末広亭で初めて聴いて、大笑いしたものだ。
正岡容の文を紹介した後、矢野さんはこう書いている。
いずれにしても、あまり自作があるとは思われていなかったこのひとに、いくつかの作品があったらしい事実は、意外な一面と受けとれなくもない。『昭和戦前傑作落語全集』に載っている志ん生口演の速記には、志ん生という落語家のそうした知られざる才能の発揮されているものが何本かあって、それがこの時代のこのひとの落語家としての活動のある一面をのぞかせてくれるのだ。
では、その全集のこと。
矢野さんは、戦前の講談社の雑誌に掲載され、全集に収められる予定の作品リストを見た。
全部で二十一本収められている『昭和戦前傑作落語全集』の志ん生の演目をながめて、面白いことの気がつく。それでなくても、演目の決して少なくないひとではあったが、雑誌に載せる速記の性格をつねに考慮していて、多少とも毛色の変った演目を提供しようという意識が、ほかの落語家よりも強くはたらいているようにうかがえるのだ。もちろん、『長命』『代り目』『桃太郎』『ぞろぞろ』『お灸』『つもり泥』『犬の災難』『鯉のぼり』『百年目』『そば清』『淀五郎』『搗屋幸兵衛』と、半分以上は晩年までしばしば高座にかけていた演目の速記なのだが、おなじみのはなしであるはずのこの種の速記にも、志ん生ならではなお色彩はかなり濃厚に投影されている。
どうやら雑誌に掲載される落語の速記は、高座の記録というよりも、独立した読物としての価値がなければならないという考えを、すでにこの時代の志ん生はいだいていたようで、そうした考えが、雑誌の速記もお座敷のひとつといった姿勢を表面上はとりつくろいながらも、ほかの落語家とはひと味ちがった速記を提供することにつとめていた気味があるのだ。そして、そのことが、この時代の志ん生にとっての精一杯の商売感覚なのであった。
(中 略)
寄席というところは、落語家にとって家庭のような意味あいが多分にあって、そういう場所では仲間うちでの評価、評判が必要以上に左右する。仲間うちでの評判の決していいとはいえなかった志ん生が、そうした評価の及ばない、放送、レコード、速記といった、寄席をはなれた場に於て活路をひらいていこうとはかったとしてもべつに不思議なことはない。
まだ売れる前、雑誌から声がかかった時、一つの勝負の場を志ん生は思ったことだろう。
いつも寄席でかける噺にしても工夫を加え、あるいは、当時でも珍しい噺(『円タクの恋』など)を意識的に速記の素材とした志ん生。
どんな内容だったのかなども、次回はご紹介する予定。
