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噺の話

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あらためて、志ん生の師匠は円喬だったのかー小島貞二著『志ん生の忘れもの』より。

 先日、古今亭志ん生の最初の師匠は、「いだてん」が描くように四代目橘家圓喬ではないだろう、と書いた。

 あくまで、憧れの師匠が圓喬であり、ご本人が圓喬に入門したとおっしゃっているのは、願望する余りの思い込みではないか、と書いた。

 実は、あの記事で、小島貞二さん聞き書きの『びんぼう自慢』の内容は、あえて引用しなかった。

 なぜなら、あの本では、明確に最初の師匠は円喬と紹介されており、「いだてん」も、たぶんに『びんぼう自慢』を土台にしていると思えたからだ。

 しかし、前回の記事を書いてから、小島さんの本で、見逃せないものがあったことを思い出した。

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小島貞二著『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)

 その本は、『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)。
 平成11(1999)年の発行。
 同じ書店から出ている小島さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』は、何度か紹介している。

 小島貞二さんと志ん生とのお付き合いは長く、深い。

 その二人の出会いのおかげで、落語愛好家のとって宝物とも言える多くの志ん生に関する作品が残された。

 最初、『サンデー毎日』の連載企画のために小島さんによる志ん生の聞き書きが始まり、その内容から『びんぼう自慢』が生まれた。

 毎日新聞から立風書房に移ってから、その『びんぼう自慢』の再刊に続いて、「志ん生○○○ばなし」シリーズが発行された。

 ちなみに、この本の発行元うなぎ書房は、その立風書房を退社された方が創業した会社。

 「まえがき」から、まずご紹介。

 志ん生さんとのやりとりは、普通のインタビューとは違っていた。
 普通は、一問一答の形で進む。話のキャッチボールで会話が弾むものであるが、志ん生さんの場合は違う。
 一つテーマを示す。「きょうは、子どもの時分のことを・・・・・・」と注文すると、「えー、あたしのガキの時分の、上野、浅草なんてえものは・・・・・・」ともう始まっている。
 あくる日、酒についての注文を出す。「酒えてことになると、あたしは、どうも、ダラシがなくなっていけませんや・・・・・・」、その次は旅、その次はバクチ。「ひとり高座」が十五分も二十分も続く。その日の気分で、いつ、どこから、どっちへつながるのかわからない。
 時には同じ話が二度、三度と返ってくるかと思うと、その同じことのある部分が拡大され、そこから新しい話がまた始まる。無尽蔵の宝庫の中で、しばし迷子になるような気分であった。底の知れない穴蔵に、腕を突っ込んで、埋もれた金塊を探す光景にも似ていた。

 なんとも、贅沢なインタビューだろう。
 
 小島さんというたった一人の客に向かっての、志ん生の高座、とでも言うべきか。

 そんな長時間の聞き書きを、「思い出すままを記した」のが本書、と説明されている。

 本書の「朝太ひとり旅」より引用。

 志ん生さんにきいた、もっともいい話、もっともドラマテックな話を一つ。
 若いころ・・・・・・おそらく朝太の時代であろう。小円朝一座で旅に出た。
 小円朝は当時、三遊派の頭取をつとめた大看板であったが、ちょっと協会にごたごたがあり、責任をとっての旅回りということらしい。前座がひとり足りないからと、朝太がかり出されたのである。
 旅先で、師匠円喬の訃を知り、体中の水分がなくなるほど泣く。旅が一年半ほど続くが、ドサ回りはどこも客が入るとは限らない。ご難が続く。
 そのうちに、「いい加減に、東京に戻っておいでよ」の手紙が来て、小円朝一行は帰京ときまる。朝太も、「お前も、一緒に帰るんだろうね」ときかれる。朝太は考える。
 帰っても師匠(円喬)はいない。このまま小円朝の弟子になる気が向かない。多少芸に自信みたいなものも生まれて来ている。ここでひとり旅をして、いよいよ困ったら東京に戻ればいい。
 友達の窓朝に相談してみると、「ひとり旅も面白いもんだぜ。でも大変だけどもなァ・・・・・・」という。「面白いもんだぜ」と「大変だけどもなァ・・・・・・」を両天秤に掛けて前者を選ぶ。
「それじゃァね、しっかりおやりよ。でもね、身分が前座のままでは通りもわるかろうから、わたしが許すから、これからどこへ行っても、東京の二ツ目ってえことにしたらいいよ」
 と、小円朝から餞別と一緒に、特別に「二ツ目」をもらう。こうして、朝太ひとり旅がはじまる。

 ということで、この文章からは、志ん生が円喬の弟子だったことを、まったく疑う様子が見えない。

 あまりに、志ん生と近づきすぎたことによる、錯覚の共有なのか・・・・・・。

 それとも、小島さんが何度も聞く中で、志ん生ご本人が語る円喬の思い出話から、弟子であったことの信頼性が高いと、判断したのか・・・・・・。

 などと思っていたら、この章のしばらく後に、種明かしのような章があった。

 その名も、「最初の師匠」から引用。

「あたしは、はじめ円盛のとこにいたんですよ」
「えッ、あの、イカタチの円盛の?」
「うん・・・・・・」
 私が飛び上がるほどおどろいたというのは、全くの初耳で、円盛は“奇人”で知られてはいるものの、二流の落語家で、ほとんど無名といってよい。
 志ん生さんは『びんぼう自慢』の中でも、名人といわれた橘家円喬(四代目)の弟子だといっている。最初の名が三遊亭朝太であったこともはっきり語っている。朝太は円喬の最初の名。出世名前である。
 私も、最初の『びんぼう自慢』取材の折、そこのところを二、三度確かめたが、忘れてしまったのか、思い出したくないのか、多くを語ることはなかった。
 志ん生さんのいう「名人円喬の弟子」で、そのときには原稿を統一したいきさつがある。自伝の聞き書きは、誰の場合でもそうであるが、ご本人や記録を大事にしなければならない。
 そこは、いきなり奇人円盛“が、最初の師匠として飛び出した。それもこちらが何も聞かないのに、志ん生さんがポツリと告白のようなひとことだから、驚いて当り前だ。

 このポツリの述懐は、信憑性がありそうだ。

 だから、まずは最初、円盛の弟子、というのは動かせないだろう。

 小島さんは、美濃部孝蔵少年の家出以降を、このように推測している。
 毎日遊んでばかりにはゆかない。さほどの期間ではないが、御徒町の鼻緒屋に奉公したことがある。そのころ芸事に夢中になり、天狗連(アマチュア、セミプロごっちゃの芸自慢)に入り、そういうグループを仕切る三遊亭円盛の内輪になる。そのときの芸名は盛朝。かなり達者で評判もいい。本格的にプロの道に入りたいと願うようになり、円盛に相談すると、
「じゃあ、ウチの師匠に頼んでみよう」
 と、円盛の師匠、小円朝に紹介され、そこに入門する。
 入ってみたが、師匠との折り合いがあまりよくない。寄席できく円喬の名人芸に惚れ込んで、「師匠はこの人だ」とのめり込む。
 あるいは、小円朝の許しを得て、人形町の玄冶店に住む円喬のとろろに通い、身の回りの世話をしながら、稽古を受けたことが、一時期あったのかもしれない。円喬の没は大正元年十一月二十二日、四十八歳だから、志ん生さんが円喬に接したのは、さほど長くはない計算になる。円喬没後改めて小円朝門下に転じたのかもしれない。
 のちの九代目土橋亭里う馬は、その円喬の最晩年の弟子で、初名を喬松といった。
「志ん生さんは、円喬の弟子だったことがあるんですか」
 と生前、里う馬に聞いてみたが、笑ってイエスともノーともいってくれなかった。
 三代目の三遊亭小円朝は、二代目小円朝の実子。志ん生より二つ年下で、十六歳でg父に入門、初名を朝松という。
「志ん生さんは、円喬の弟子だったといってますが、本当は、お父さんの弟子で、師匠とは兄弟弟子でしょう」
 と、きいたことがあるが、これもはっきりと返事をしてもらえなかった。
 功なり名を遂げた“天下の志ん生”に対し、仲間うちで否定的なことは絶対のタブーと、私は理解した。
 志ん生さんのプロとしての最初の師匠は円喬なのか小円朝なのか、幻の中にある。

 この、円喬の弟子だった土橋亭里う馬と、三代目小円朝の小島さんの質問への態度に、事実が隠されているようにも思う。
 なるほど、あの時代の噺家さんは、小島さんの質問に軽々しく答えるようなことはなかった、ということか。

 志ん生が、生涯「円喬の弟子」と言い続けた気持ちも、汲み取ってあげる必要があるのだろう。

 実際に、円喬宅を訪れ、稽古をつけてもらった可能性も、ある。
 師匠の乗った人力車をひいた、というのは、考えにくいのだけどね^^


 さて、あらためて、志ん生の師匠は誰だったか。

 小島さんの言うように、その答えは幻の中にそっと閉じ込めておくのが、よさそうだ。

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by kogotokoubei | 2019-04-08 21:36 | 落語家 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛