志ん生は、本当に圓喬の弟子だったのか・・・・・・。
2019年 04月 04日
しかし、落語愛好家の方はご存知のように、本人はそう言っているが、たぶんに疑わしい。
今回は、そのあたりについて、少し。

『古今東西落語家事典』では、こうなっている。
出生日には六月五日、六月十日の異説がある。
三遊亭圓盛(いかたちの)門人の天狗連で盛朝を名乗ったが、明治四十三年ごろ二代目三遊亭小圓朝門下となり朝太と名づけられた。大正五年ごろ三遊亭圓菊で二ツ目に昇進、さらに馬生(のち四代目古今亭志ん生)門に移って金原亭馬太郎、さらに金原亭武生と改名、同十年九月、金原亭馬きんで真打に昇進した。
圓喬に入門、とは書かれていない。
しかし、圓喬の名は次のような文脈で登場する。
晩年売れたのも、崇拝していた四代目橘家圓喬などの本格的な噺を身につけた上で、柳家三語楼の明るい話し口を加えた独特の芸風が迎えられたものである。
この事典の執筆者の一人の本にもあたってみた。

保田武宏著『志ん生の昭和』
保田武宏さんの『志ん生の昭和』(アスキー新書)だ。
著者の保田さんは志ん生のCDとDVDの全作品691のガイドブックも書いているし、志ん生のことを知るには、保田さんの著作に当るべきだろう。
もしかすると、事典とは違う沿革が書かれているかもしれないと思ったが、本書でも、このように記されている。
放蕩生活を続けたあと、明治三十八年に天狗連に加わる。天狗連というのは、素人の落語家の集りで、当時たくさんあった端席の寄席などで高座に上がっていた。その仲間に入って、三遊亭圓盛(堀善太郎)のもとで三遊亭盛朝と名のった。この圓盛という人は、二代目三遊亭小圓朝(芳村忠次郎)門下のプロの落語家で、背が低くて頭が大きく、イカが立って歩いているようだというので「イカタチの圓盛」と呼ばれていた。芸はまずかったが、奇人として有名だった。このように、圓喬の名は、まったく出てこない。
この圓盛の師匠である小圓朝に入門したのが明治四十三年、数え二十一のときだといわれている。三遊亭朝太の名前をつけられ、プロの落語家としてのスタートをきった。
では、珍しい親子の会話もご紹介。

『志ん生芸談』(河出文庫)
『志ん生芸談』は、本人が落語集のために語り下ろした言葉や、雑誌に掲載された対談などが収められている。
その中に、昭和36(1961)年12月4日号の『週刊文春』の記事がある。
記者が日暮里の志ん生宅を訪問して書かれたもののようだ。
日付は昭和36年11月19日、倒れるほぼ一ヶ月前になっている。
真打昇進の一年前で、まだ朝太の志ん朝が、志ん生のネタ帳を見ての親子の会話。
「“和歌三神”か・・・・・・父チャン、これできねえだろう?」
「できるよ。圓喬さんがうまかったネ・・・・・・。“鰍沢”なんてえのは、天下一品だったネ、楽屋で聞いてて、柱に頭ぶつけて、目ェまわしたことあるんんだもんネ・・・・・・」
「その名人の圓喬さんの噺てえのを聞いてみたいもんだネ」
「円喬さんを知ってえるのは、アタシと文楽さんだけだ」
「父チャン、圓喬さんの弟子だたってえけど、掃除なんかしにいったの?」
「そりゃ、もうオメエ、朝早く出かけてくてえと、もうチャンと起きてるからネ、そいでもって、きせる掃除したりなんかしたん・・・・・・」
「じゃあ、ほんとのお弟子さんだったん?・・・・・・なァんて、父チャン疑ぐられちゃってんだ」
この志ん生の言葉を信じるならば、圓喬の弟子だったことになるが・・・・・・。
崇拝していた圓喬の弟子だったことにしたい、という願望が、弟子だった、と自分も思い込むほどの錯覚につながったのかもしれない。
志ん生が圓喬の弟子だったのかどうかは、結構、大きな落語界のミステリーと言えるかもしれない。
くどかんは、弟子だった、ということで脚本を構成しているが、なかなかに微妙なのである。
私は、あくまで憧れだったのが圓喬であり、弟子ではなかった、と思っている。
次回「いだてん」では、小圓朝門下として旅に出る場面が描かれそうだ。
地方回りでの逸話も多いので、いろんな事件(?)が描かれるだろう。
松尾スズキの出番は、今後減っていくのは残念だが、小圓朝や他のドサ回り仲間がどう描かれるのかは、楽しみにしたい。
余談だが、引用した昭和36年11月の出来事の中で、11月17日には、東京落語会で『火焔太鼓』の後、新宿末広亭で『寝床』をかけている。
71歳だったが、まだまだ元気だったことが分かる。
翌月12月15日が、巨人の祝勝会だ。
私は、志ん生が倒れた原因を知ることで、アンチジャイアンツの度合いが増した。
