川戸貞吉さんのご冥福を祈る。
2019年 03月 13日
サンスポから。
サンケイスポーツの該当記事
2019.3.12.05:00
演芸評論家の川戸貞吉氏が死去、「現代落語家論」など著書多数
演芸評論家の川戸貞吉(かわど・さだきち)氏が11日午前11時55分、直腸がんのため東京都杉並区の自宅で死去、81歳。横浜市出身。通夜は13日午後6時から、葬儀・告別式は14日午前9時半から杉並区和泉3の8の35、龍光寺大師堂で。喪主は妻、恵子(けいこ)さん。早大の落語研究会で活動し、1961年にアナウンサーとしてラジオ東京(現TBS)に入社。ディレクターに転身後は数々の落語番組を制作。学生時代から立川談志さん、五代目三遊亭円楽さんらと交流し、五代目柳家小さんさんにも目をかけられた。「現代落語家論」「落語大百科」など著書多数。
多数の著作があるが、代表作はこの記事でも挙げている『現代落語家論』だろう。
私も、何度か記事で引用させてもらっている。
五代目小さんの十三回忌追善落語会が開かれていた頃に書いた記事で、川戸さんのこの本から、他の人の著作では知りえない逸話を引用した。
重複するが、あらためで紹介したい。
2014年5月14日のブログ

川戸さんは、早稲田の落研時代から当時の小ゑん(談志)や全生(五代目円楽)と懇意になり、TBS入局後に、今につながる落語研究会の再開を企画した人。
本書は昭和53年五5月10日初版発行なので、あの落語協会分裂騒動の直前。よって、著者は翌年早々に『新現代落語家論』を書くことになる。
さて、上下二巻のうち下巻にある小さんの章からの引用。
不精な私だが、『落語日記』と称して、落語に関する日記だけは、つけてきた。この日記から、小さんの芸談を、少し拾い出してみよう。
昭和四十二年十月三日
夜、イイノホールへ行く。楽屋では正蔵・小さん両師のやりとりが印象に残った。
小さんが正蔵に、いろいろと聞いている。まず朴炭(ほおずみ)のこと。『湯屋番』に出ているという。
「家の愚妻さんも使っているよ。四代目(四代目小さんのこと)も使っていた」
と、、正蔵がいう。
朴炭は朴の木の炭で、それでこすると、たいへんすべすべするそうだ。
「垢すりも近頃は使わなくなったねェ」
「昔は三助が使ったが」
と、しばらく雑談。
『湯屋番』は小さんの十八番といわれているのに、まだ調べている。頭が下がる。
(中 略)
この夜の小さんの演しものは『王子の狐』。
稲荷町と目白の楽屋話、なんともいい感じだ。
横で聞いていた人が羨ましい。しかし、誰にでも話すようなことではない。
やはり、川戸さんが小さんや正蔵が心を許して話せる相手だった、ということだろう。
日記の紹介を続ける。
十月八日
夜、小さん師と飲む。『王子の狐』について話を聞いた。前座・二ツ目時代に八代目文治から教わったもので、ずっとオクラにしていたという。
「久々此間(こないだ)演ったが、もう忘れちゃったよ」
そういってケラケラ笑った。
四代目小さんは、狐をだます人間を二人連れにして演っていたという。『そのほうが演りやすいから』という理由からであった。
「なるほどそのほうが演りやすいやね」
今まで『王子の狐』で二人連れで狐をだます噺は聞いたことがないが、なるほど面白いかもしれないなぁ。
この師匠四代目小さんにまつわる逸話を、昭和四十八年三月二十二日の日記の、小さんの会話の途中からご紹介。
「とにかく昭和の名人というと、五代目円生、三語楼、四代目小さん、八代目文治だな。文楽師匠は、まだそのあとだよ。あたしも三語楼の噺を聞いて噺家になろうと思ったんだから。そりゃァ素人のときは、三語楼を追いかけたもんだ」もし、小さんが正岡宅に殴りこみに行っていたら五代目を継ぐこともできなかったかもしれない。
それから話は、自分の師匠四代目小さんのことに移った。
「うちの師匠は本当に上手かった。でも、うちの師匠の本当のよさをわからねえ奴が、大勢いたね。あの小勝(五代目小勝)だってそのうちのひとり、それから正岡容。
その人が、うちの師匠のことを悪くいったんだ。『志ん生の代わりに四代目が出たが、あれじゃァ代演にならない。志ん生の代わりに小さんなんて・・・・・・』等と書いたんだな。いまにして思うと、これはセコだとかなんとかいうんじゃァない。芸風が違うから代演にならないという意味なんだろうけれど、なにしろこっちゃァ若かったからねェ、浅草のほうの鳶の鳶頭(かしら)が見せてくれたんだが、『うちの師匠のことをこんなに悪くいうなんて』と思ったら、体がぶるぶる震えてきたね。『よーし、あの野郎明日ぶん殴りに行ってやる』と思ったン。『そうだそうだ』なんて、鳶頭もこっちを煽るしね。本当に行こうと思ったン。
ところが、その晩に赤紙がきて、こっちは軍隊に連れてかれちゃったァ。いまから考えると、殴らなくていいことしたよ」
本当だ。もしこのとき殴っていたら、おそらく大騒動になっていたに違いない。
学生時代からの談志との縁、そして、テレビ局の演芸担当としての仕事柄もあるだろうが、昭和の落語家との交流の幅広さや深さ、という点においては、この人を超える人はいなかったのではなかろうか。
昭和の名人たちの得がたい逸話で、川戸さんの著作からしか知ることができないものは少なくない。
たとえば、『現代落語家論』から、志ん朝の二ツ目時代の奮闘ぶりを紹介したことがある。
2011年10月1日のブログ
実に貴重な記録でもある。川戸さんしか書けない内容だと思う。
また、学生の頃から集めはじめた高座の録音テープも有名。自身が担当したTBSラジオの「早起き名人会」でも放送され、『席亭 立川談志の「ゆめの寄席」』などがCD化された。
川戸さんのライブラリーに関しては、NHKラジオで、玉置宏さんが「早起き名人会」の音源を無断で使用したことが発覚し、川戸さんと玉置さん側でひと悶着あったが、落語愛好家としては、なんとも言えない残念な事件だった。
小朝が書いた文章への抗議なども含め、やや、喧嘩っぱやい性格だったかもしれない。
談志の著作では「貞やんを知らない奴は、(落語の世界の)モグリ」と書かれていたなぁ。
昭和の落語家、落語界の語り部が、また一人旅立った。
3月11日という命日は、忘れることはないだろう。
家元が、「よっ、待ってました!」と迎えていたに違いない。
川戸貞吉さんのご冥福をお祈りします。
著書では圓楽(先代)の芸が時を経て練磨されていった、というようなことを熱心に書いておられました。
また、浅草での三平(先代)の弟子との一件も有名です。
また、心から落語と落語家を愛して語った方が亡くなりました。残念です。
五代目圓楽とは全生時代からの付き合いですから、なおさらその変化がよく分かるのでしょうね。
初代三平のことは、寄席への集客力とその爆笑させる芸を著作で高く評価しています。
昭和13年生まれは、志ん朝と同じ。
残念です。
