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三笑亭夢樂の入門の経緯ー大西信行著『落語無頼語録』より。

 先日、矢野誠一さんの『人生読本 落語版』から、いくつか記事を書いた。

 その中で、『唐茄子屋政談』など、若旦那が勘当されるネタについて、「久離」という言葉の由来について、矢野さんが三笑亭夢樂に、まんまとかつがれた、という逸話を紹介した。
2019年2月23日のブログ

 その際、夢樂のことをWikipediaで紹介したのだが、「永井荷風を通じて正岡容を知り、その紹介で、1949年3月に5代目古今亭今輔に入門」という説明に関し、どこで、夢樂と永井荷風がつながっていたのか不明、と書いていた。

 最近、ある本を再読していて、その糸口が見つかった。

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大西信行著『落語無頼語録』

 その本とは、大西信行さんの『落語無頼語録』。
 元は「話の特集」での連載で、昭和49年に芸術生活社から発行され、その二年後には角川文庫の一冊となった。
 私は、初版の単行本を読んでいたが、最近、古書店で文庫も手に入れ、再読していた。

 「可楽と夢樂」の章に、夢樂の入門場面に大西さんが偶然居合わせたことが書かれていたのだ。

 夢樂は可樂の弟子になる前、古今亭今輔の弟子で今夫といっていた。
 かれが落語家になるそもそもに、ぼくは偶然立合っている。
 思えば、あの場に居合わせていた人はみな死んでしまって、夢樂とぼくと二人だけになった。
 二十五年も前のことだ・・・・・・。
 市川の菅野というところに長唄の三味線弾きで杵家五叟という人がいた。戦後永井荷風がこの五叟の家に寄宿していて、荷風の没後に五叟の次男が荷風の著作権者になったりしているのだかで、荷風の縁戚なのだろう。その五叟がおなじ市川の真間にいた正岡容の家へ、夢樂を連れて来た。満州の北京大学を出たとかで、夢樂は海軍将校の着るような黒っぽい外套を着ていて、あれはいったいいつのことだったろうと聞いてみたら昭和二十四年の三月だったそうだ。
 落語家の弟子になろうというなら少しは粋なところもありそうなものだのに、五叟の連れて来た渋谷滉と名乗る青年は体ばかりやけにがっしりといかつくて、むしろ講釈師になら向いていそうだなと、そんなことを考えながら部屋の隅に坐って黙って話を聞いていると、正岡は今輔という人が弟子の育て方にも新しい考え方を持っていて、それを実行するだけの力もあるからとすすめて、夢樂の渋谷滉は今輔の弟子になった。

 その後、古典がやりたい夢樂は、今輔が一升瓶を下げて可樂の家を訪ねて弟子入りを願い、その後、可樂が一升瓶を下げて今輔を訪ね「たしかに今夫は私がひきうけました」と、無事、夢樂の移籍(?)が成立。
 夢樂は、「つまり私は酒一升でトレードされたようなものでして・・・・・・」と大西さんに笑って言っていたらしい。

 少し調べてみたら、杵家五叟は荷風の従弟のようだ。

 縁戚が正岡容の元に夢樂を連れて行ったことは、分かった。

 しかし、なぜ、その五叟と夢樂との縁があったのかが、まだ、謎ではある。

Commented by kanekatu at 2019-03-09 10:34
戦時中、政府が言論統制のために「日本文学報国会」を作って文筆家を強制的に結集させました。この会員にならないと文筆活動を出来なくしたため、宮本百合子らの左翼文学者も会員にならざるを得なかったのです。
ただ永井荷風だけは誘いを断り、著名な作家の中では唯ひとり入会拒否を貫きました。この一事を以って、永井荷風を尊敬しています。
Commented by kogotokoubei at 2019-03-09 21:12
>kanekatuさんへ

ドナルド・キーンさんの『日本人の戦争-作家の日記を読む』には、
「自他ともに認める共産主義者の宮本百合子(1899-1951)は、戦後になって夫の宮本顕治から文報入りを非難された。宮本顕治は当時、共産主義者として投獄されていた。百合子は、一人で外にいるのに耐えられなかった、と顕治に応えている。」と書かれています。
荷風は、日記によると自宅周辺をうろついている特高が気になっていたようです。
文報に入っていないことが、そんな窮屈な生活をもたらしたのでしょうが、信念を貫いたんですね。
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by kogotokoubei | 2019-03-08 20:27 | 落語の本 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛