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ドナルド・キーンさんと越後との縁。

 2月24日に亡くなったドナルド・キーンさんは、新潟県の柏崎市と長岡市の名誉市民。

 また、柏崎には、ニューヨークにあったキーンさんの書斎の再現なども展示されている「ドナルド・キーン・センター柏崎」がある。

 どんな越後との関りがあったのだろうか。

 センターのサイトから紹介する前に、新潟日報の訃報を伝える記事から、ご紹介。

新潟日報の該当記事

ドナルド・キーンさん死去 96歳
日本文学研究者 新潟との縁深く


 三島由紀夫、安部公房さんらの作品を英訳して世界に紹介した日本文学研究者で、東日本大震災後に日本国籍を取得した米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさんが24日午前6時21分、心不全のため東京都台東区の病院で死去した。96歳。米ニューヨーク生まれ。葬儀・告別式は親族のみで行い、後日、お別れの会を行う。喪主は養子のキーン誠己(せいき)さん=新潟市西蒲区出身=。

 新潟県との縁が深く、たびたび来県した。1998年には長岡藩ゆかりの米百俵の戯曲を英訳。約50年前に英国で台本が発見された古浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」の復活上演をきっかけに2013年、柏崎市に業績などを紹介する「ドナルド・キーン・センター柏崎」がオープンした。同演目はキーンさんらによって17年6月、ロンドン公演が行われた。長岡市と柏崎市の名誉市民にもなっている。また、新潟日報文化面で14年から「東京下町日記」を連載していた。

 コロンビア大在学中に「源氏物語」と出合い、日本文学への関心を抱く。米海軍日本語学校に入学し、第2次世界大戦中は通訳官を務めた。ハワイの日本人捕虜収容所では、新潟日報社の小柳(おやなぎ)胖(ゆたか)元社長とも交流があった。

 終戦後、コロンビア大大学院、英ケンブリッジ大で学び、1953年に京都大大学院に留学。近松門左衛門や松尾芭蕉を研究した。太宰治や三島らの作品を英訳。三島や谷崎潤一郎、川端康成、司馬遼太郎さんら日本を代表する数々の作家と交流し、日本の文化や歴史、能や文楽などの芸能を海外に紹介した。86年にはコロンビア大に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された。

 近年は明治天皇が日本の近代化に果たした役割に注目、隠された史実の掘り起こしにも力を注いだ。菊池寛賞、毎日出版文化賞、安吾賞など受賞多数。2008年に文化勲章を受章。

 長年ニューヨークと東京を行き来して活動を続けたが、東日本大震災後、日本永住を表明し、12年春に国籍取得。多くの外国人が離日する中、日本人を勇気づけた。雅号は「鬼怒鳴門(キーンドナルド)」。

 著書に、日本文学の普遍性と特殊性を解説した大著「日本文学の歴史」(全18巻)のほか、「日本との出会い」「百代(はくたい)の過客(くわかく)」「明治天皇」「正岡子規」「石川啄木」など。11年から「ドナルド・キーン著作集」(全15巻)を刊行していた。
【社会】 2019/02/24 18:32

 ということで、新潟のと縁は、この記事で丁寧に紹介されている通り。

 柏崎との縁につながる「弘知法印御伝記」について、Wikipadia「弘知法印御伝記」から、少し紹介する。
Wikipedia「弘知法印御伝記」
『弘知法印御伝記』(こうちほういんごでんき)は、即身仏となった弘知法印の伝説を基にした説教浄瑠璃。1685年(貞享2年)刊の絵入り本が1963年(昭和38年)にイギリスの大英博物館で発見され、世に知られた。江戸時代初期に演じられた古浄瑠璃の一つで、正本は江戸孫四郎(江戸時代前期の説経節太夫)によるもの。角書きは「越後国柏崎」(えちごのくにかしわざき)、内題は「弘知上人」。
 
 その内容についても、少し引用。
 内容は、同作が著された約250年前の南北朝時代に即身仏となったとされる伝説的な僧・弘知法印の生涯を演劇的な虚構を加えて創作したもので、出家、家族との離別・再会、お家再興、上人の栄光を六段に分けて描いており、江戸時代の庶民の死生観や宗教観を伺い知ることができる。
 なお、弘知のミイラ化した遺体とされるものが新潟県長岡市寺泊の西生寺に安置されており、同寺の『弘智法印即身仏御縁起』(年代不明)によると、弘知は下総国香取郡正木郷に生まれ、奥羽を巡り、高野山での修行の後、1363年(貞治2年)に猿ケ馬場の岩坂で禅定の境地に入り、亡くなったとされる。本作以降も弘知の名は江戸時代の様々な文芸作品に登場し、とくに旅行記・旅行文献には弘知のことや西生寺への参詣についての記述が江戸末期まで散見される。

 弘知法印の生涯を描く絵入り浄瑠璃が、なぜ、イギリスに渡ったのか、という謎は興味深い。
 そして、その古浄瑠璃復活上演に、キーンさんは貢献していた。

 そういう縁でできたセンターのサイトから、「ドナルド・キーン ごあいさつ」を引用。
ドナルド・キーン・センター柏崎のサイト

柏崎に、ドナルド・キーン・センター柏崎という名称の日本研究センターができたことは、日本文化を国外と国内でよりよく理解されることを願って、これまでの人生を送ってきたわたし私にとって、もちろん勿論非常に嬉しい出来事です。その上、この研究センターに私の名前がついていることは言葉で表現できない悦びです。海外の日本研究は私から始まったものではありません。先輩に、特にアーサ・ウエーリという天才的な学者がいて、ウエーリの『源氏物語』の英訳を読んで私は初めて世の中に日本文学があることを知り、その素晴らしさに感激しました。しかし、私が日本語を勉強し始めた、今から七十二年前にウエーリの翻訳を知っていた欧米人は少数であって、文学を専攻する大学生は世界の文学を論じる場合、日本文学を無視するか、二三の俳句を引用する程度でした。

変化が起こったのは太平洋戦争でした。私は反戦主義者で、戦争を徹底的に嫌いましたが、戦争という悪行にも人間のためになることがあります。日米戦争が始まった時、陸海軍が日本語のできるアメリカ人は極めて少ないことに気付いて、あわてて日本語学校を設立して、一流大学の最もすぐ優れた学生―特に或る外国語を習得した学生―を選んで集中的に日本語を教えました。全部で二千人位の若者が日本語を覚え、戦時中日本軍が戦場に残した書類や日本の捕虜の尋問をするようになりました。戦争が終わってから、日本語学校を卒業した人達の大多数は戦前に希望していた職業に就きましたが、そういう人達も日本に関心が深く、日本人が好きでした。日本と戦争していたにも関わらず日本語を覚えた若い人達に敵愾心はありませんでした。

一方もとの学生の一割位は日本語を忘れないで、なにかの形で日本と関係のある仕事を見つけました。私はその一人でした。コロンビア大学で、角田柳作先生の許で古典文学と思想史を勉強しました。他は日本の美術、近代史、経済、政治などの研究に力を入れました。かれらは海外の日本研究の最初の世代でした。現在孫弟子が活躍しています。

戦前、日本語を教えるアメリカの大学は六、七しかなく、多くは二世の多い太平洋に近い大学でしたが、現在は殆どの評判のいい大学では日本語を教えています。もう珍しい外国語でなくなりました。アメリカだけではありません。戦前ヨーロッパで日本語を教える大学は四、五しかありませんでしたが、現在各国で人気のある外国語です。

ドナルド・キーン・センター柏崎は一人の名前の冠を持っていますが、海外で一生懸命に日本の研究をし、日本への道を切り開いた全ての人達と一緒にこの喜びを分かち合いたいと思います。

ドナルド・キーン

 「反戦主義者」と、明確に宣言している。
 日本、そして日本文化への深い愛情が、この文章からも十分に伝わってくる。

 今後、海外で日本、日本文化を研究する人たちが訪ねるに値する場所が、越後にできた。

 私も、ぜひ立ち寄ろうと思う。

 こセンターのサイトからも、いろいろ学ぶことができる。
 年譜が掲載されている。
 昭和20(1945)年の内容を紹介したい。
 
1945年(23歳) 3月、フィリピン・レイテ島を経て沖縄戦に従軍。日本軍捕虜の通訳官を務める。
        8月、沖縄戦終了後、ハワイに戻り、ホノルルの自宅で広島への原爆投下を知る。
        8月15日、日本、ポツダム宣言受諾、敗戦。中国・青島への赴任の途中、グアムで
        昭和天皇の玉音放送を聴く。
        9月、中国・青島で日本兵の戦犯調査の任務に就く。
        11月、戦犯調査にいたたまれず、除隊を申請。
        12月、ハワイの原隊復帰への帰路、焼け野原の東京に立ち寄る。親しくなった
        日本人捕虜たちから託された手紙を懐に、消息を家族に伝えて廻る。
 23歳で、米軍の通訳官として、沖縄戦を体験している。
 戦犯調査にいたたまれなくなったことは、著作でも書かれているので、そのうちに紹介したい。
 捕虜からの手紙を家族に伝えて廻る、なんてこと、なかなかできることではない。


 キーンさんと越後の縁を、遅ればせながら知ることができ、連れ合いの実家の長岡に行く時の楽しみが増えた、
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by kogotokoubei | 2019-03-02 09:18 | ある人物 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛