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こんなこと学校じゃ教えない(5)ー矢野誠一著『人生読本 落語版』より。

 笑福亭松之助さんが亡くなり、その後、ドナルド・キーンさんの訃報にも接することに。

 お二人について書きたいことはあるが、まず、このシリーズを完結させてからとしよう。

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矢野誠一著『人生読本 落語版』(岩波新書)

 矢野誠一さんの『人生読本 落語版』(岩波新書)から最終の五回目。

 「第五章 遊びをせんとや」の「遊郭」をご紹介。

 冒頭から引用。

 あまり学校じゃ教えてくれないたくさんのことを、寄席という教室で学んだわが身が、こればっかりは落語以外に手本がなかったと、こころの底から思うのが、廓の世界のあれこれである。無論、1958年3月31日の、俗のいう「売春防止法」の施行前にすべりこめた口だから、べつに威張るほどのことじゃないが、私にだって一応の廓体験ぐらいはある。だが廓とは名ばかりの、単に御婦人相手に遊べる特殊飲食店のそれで、だから伝えられる綿綿たる廓情緒は、落語の廓ばなしから感じとるほかになかった。

 まさに「こんなこと学校じゃ教えない」ことの筆頭が、廓ばなしの世界。

 矢野さんは、昭和33年3月31日という、よく落語のマクラで、親の命日は忘れてもこの日は忘れない、という期限には間に合ったんだが、それは、落語の世界ではなかった、というわけだ。

 この後、その廓ばなしの名手のことが紹介される。

 二十七歳で腰が抜け、三十で失明、失明後はかつて吉原でお職をはった恋女房のおときに背負われて楽屋入りして高座をつづけた名手もいた。この能脊髄梅毒症に白内障をおこし、三十七年の短かすぎる生涯を終えた廓ばなしの名手が初代柳家小せん。ひと呼んで盲目の小せん。

 初代柳家小せんについては、これまでにも何度か拙ブログの記事で紹介している。
 当代の小せんが襲名することになった時に書いた記事でも、廓ばなしの名手として、多くの当時の若手に十八番を伝授したことなどを紹介した。
2010年2月17日のブログ

 初代小せんの教えは、当代の噺家さんにも引き継がれており、立川左談次を偲ぶ会で、五街道雲助が演じた『付き馬』は、雲助が初代小せんの速記を元にしたと、プログラムに記されていた。

 矢野さんは小せん廓ばなしの中から『五人廻し』を取り上げ、大正8(1919)年発行の『廓なばし小せん十八番』から、最初に登場する威勢のいい職人の科白を引用している。

 「三ツの時から大門をまたいで」という、あの啖呵だ。

 矢野さん、このくだりを「吉原概論」と名づけたが、なるほどぴったり。

 そして、この小せんの創作の背景に、話が及んでいる。

 後世の落語家の規範ともなっている小せんによる『五人廻し』の「吉原概論」だが、若い衆相手にとうとうとまくしたてる前の職人がどうしていたかというと、これが、やって来ない花魁を待ちくたびれて、
「オヤ、足音は何処へ行っちまったんだい、其の儘(まま)立消えは心細いぜ、オヤオヤ、今度は又階段(はしご)を早足にトントン、トントントントン向ふの部屋だ。廊下バタバタ胸ドキドキ、三度の神は正直といふ、今度は上草履を引摺りながらバタバタやって来たな、待てよ、此奴は起きて居るてえ奴も宣(い)いやうで悪いねぇ、考へもんだ」
 などとひとりごちていたのである。
 ところがこのくだり、かの寺門静軒センセイが名著『江戸繁昌記』(東洋文庫)は「吉原」の項に記された、
   乍(たちま)ち聞く長廊上履(ウハゾウリ)の声、遠々恐(きょう)然として
   漸く近し。意(おも)ふに敵娼(あいかた)来り到ると。急に衾(ふすま)を
   蒙(おお)ふて睡を粧(よそお)ふ。何ぞ意(おも)はんと足音の之を隣房に
   失はんとは。
 なんて嫖客(ひょうかく)の無聊をかこつさまの、まことたくみなアレンジなのである。
 失明する以前の柳家小せんが無類の読書家で、江戸文藝や漢籍に通じていたことはつとに知られるところだから、『江戸繁昌記』にもオリジナルの狂体漢文で接していたことは間違いなく、あの時代の落語家の教養にいまさらながら畏敬の念を払わずにはいられない。

 初代小せん、実地の勉強のみならず、書籍からもいろいろ学んでいたわけだ。

 なお『江戸繁昌記』を著した寺門静軒という人も、なかなか興味深い人物。
 Wikipediaから、引用したい。
Wikipedia「寺門静軒」
水戸藩御家人であった寺門勝春の子として生まれ(生母は河合氏)、13歳で父が死ぬが、彼は本妻の子ではなかったために後を継いで仕官する事が許されなかった。放蕩無頼の生活に身をゆだね、19歳の時に腹違いの兄が水戸家の禄を離れたために父から受け継いだ別宅を売って一時の生計に充てる。その頃から折衷学派山本緑陰の食客・門人となった。文政13年(1830年)、水戸藩の新しい藩主となった徳川斉昭が藩政を一新し有為の人材を広く登用する趣意に応えて、再度上書して黙殺され藩邸の門前で請願を試みることまであえてしたが仕官はかなわなかった。それからは駒込で塾を開いていたが、天保2年(1831年)より、江戸の風俗を記した『江戸繁昌記』を執筆する。
 (中 略)
天保13年(1842年)には江戸南町奉行・鳥居甲斐守(鳥居耀蔵)に召喚され、第五篇まで書いていた『江戸繁昌記』は「風俗俚談を漢文に書き綴り鄙淫猥雑を極めその間に聖賢の語を引証…聖賢の道を穢し」たと判断され「武家奉公御構」(奉公禁止)という処分を受けた。この際鳥居は、儒学者の旨とするところは何かと問い、静軒が「孔孟の道に拠って己を正し、人を正すところにある」と答えると、すかさず『江戸繁昌記』を突きつけ、「この書のどこに孔孟の道が説かれているか答えよ」と迫り、返す答えのない静軒は罪に服した、と木村芥舟が随筆に記している。

以後、自らを「無用之人」と称して越後国や北関東を放浪する。やがて武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に私塾を開いて晩年を過ごした。

 仕官がかなわず、放蕩無頼の生活に身をゆだねたというあたりは、勝小吉を連想してしまった。
 その体験を生かして執筆した『江戸繁昌記』が、いわゆる天保の改革で槍玉になったことから、晩年を放浪、そして、私塾を開くことで過ごした寺門静軒という人、誰か小説にでも書いていないかしら。
 
 寺門静軒が、江戸の風俗を伝える貴重な書を遺してくれたからこそ、初代小せんの廓ばなしもよりリアリティが増し傑作に仕上がったのであろう。

 興味あるなぁ、この寺門静軒という人。

 話を本書に戻す。

 矢野さん、吉原の大門について、このように書いている。

 いつの世にも文化、風俗、流行の発祥地であった吉原で、大門はやはりあの地を象徴するものだった。四囲をかこまれた廓の唯一の出入りのかなう一方口で、どこの廓にもあったこの正面口に地名を冠すことなく、ただ「大門」と称したならば、それは吉原大門のことだった。1881年(明治14)四月、門柱が石製から鉄製に改められたのを機に、その左右の柱に、「春夢正濃満街櫻雲」「秋信先通両行燈影」の漢詩が装飾されている。作詩と揮毫は「東京日日新聞」主筆の福地櫻痴によるものだが、その福地櫻痴が、「吉原に在って藝妓の膝に枕し乍ら日々新聞の社説を草して新聞社に送るのを常にしてゐた」のを「快」とした高浜虚子は、「どうかさういふ真似をやってみたい」と、京都の高等中学校に退学届を出し、小説家たらんと上京するのだ。
 今の時代に、新聞社の主筆が、風俗店から社説を送るなんてぇことは、到底想像できないが、世も違えば、人間のスケールも違う。

 少し、福地について紹介したい。

 福地櫻痴、本名福地源一郎は、天保二(1841)年に長崎で生まれた。
 江戸に出て、英語などを学び、慶応四(1868)閏4月に「江湖新聞」を創刊。
 そこで彼が書いた内容が凄い。
 「明治の御一新などというが、幕府から薩長に政権が移ったに過ぎない。薩長幕府が生まれただけではないか」と痛烈に新政府を批判したのだ。新政府の怒りを買って新聞は発禁となり、源一郎は逮捕されるのだが、木戸孝允の取り成しで事なきを得た。
 これが明治時代最初の言論弾圧と言われている。源一郎は士籍を奉還して平民となり、英語とフランス語の私塾「日新舎」を開く。塾は福澤の慶応義塾、中村敬宇の同人社と並んで「東京の三大学塾」とまで称せられ、門人には中江兆民もいた。
 しかし新聞を失った源一郎は、悶々として、吉原通いを始めることになったとのこと。
 その後、岩倉使節団の一員として明治三(1870)年にアメリカとヨーロッパを訪問するのだが、そのきっかけは、吉原で渋沢栄一と知り合ったからと言われている。

 寺門静軒が、仕官して報われない中で吉原通いをし、『江戸繁昌記』がお上の怒りにふれて罪を受け、晩年は私塾を開いていたのと、順番は逆だが、福地櫻痴との共通点が、あるなぁ。
 なお、福地櫻痴は馴染みの花魁を身請けして妾としていたから、小せんと相通じるものもある。

 ともかく、自分の生命と引き換えにそこに入り浸っていた初代小せんも、その体験を本に著した寺門静軒も、そして、そこで仕事をしていた福地櫻痴も、皆、吉原が好きだったのである。
 
 矢野さん、こんな言葉でこの話を締めくくっている。

 吉原ならずとも廓を舞台にした、あやしい危険をともなった擬似恋愛の世界から、すぐれた作品の世に出た例に、いまさら京傳、荷風、淳之介の名を持ち出すこともあるまい。
 ふりかえって思うに、辛うじてすべりこめたわが廓体験の、なんとまあみすぼらしかったことよ。絢爛たる文化や情緒の薬にしたくも無い、けばけばしいネオン街の、ただただ隠微な彷徨にすぎなかった。だが、たとえ隠微な彷徨ではあっても、やはりあの地にはなんとなく胸をときめかすものがあったし、そこに身を置くかぎり、自分にも大先達のいだいた詩人のこころが宿るような気がしたものだ。
 だからやっぱり間にあってよかった。

 間に合うはずもなかった者に、そんな自慢をしてくれる大人も、次第に減っていくばかり。

 平成の世の晩年を迎えているが、昭和世代としては、実に複雑な思いがする。

 まだ、昭和には江戸や明治、大正の頃とは違っていようとも、吉原が存在していた。そんな時代が、ずいぶん遠くに過ぎ去っていく。

 だからなおさら、学校じゃ教えないことを、落語から学ばなきゃならないなぁ。

 このシリーズ、これにてお開き。

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by kogotokoubei | 2019-02-25 21:18 | 落語の本 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛