談志も恐れた左談次の“酒癖”のこと、など。
2019年 02月 17日
11日の偲ぶ会でも、左談次に酒癖のことが語られたが、以前に、談四楼の『談志が死んだ』からその酒癖に関する逸話を紹介していた。
立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)
2016年の11月21日、談志の命日に書いた記事と重複するが、ぜひあらためて紹介したい。
2016年11月21日のブログ
談志が亡くなった直後の、一門のこと。
こんなのべつに通夜をやる一門はねえなと言いつつ、兄弟弟子は事あるごとに師匠を肴にして酒を飲んだ。談志のネタは山ほどある。あんなこともあった、こんなこともあったとそれぞれのエピソードを出し合い、笑い、みな安心して談志を血祭りに上げるのだった。
“血祭り”は言葉のアヤだろうが、とにかく、夜な夜な弟子たちは集まっていた。
そして、その“通夜”では、晩年の談志の不可解な言動が明かされることもあった。
左談次の逸話を引用。
酒癖と言えば左談次。いやむしろ私は陽気ないい酒だと思っているのだが、談志がそう思ってなかったという話なのだ。
入門早々、左談次は渋谷にある談志の書斎で小言を食った。帰れと促され、少しムッとしたらしい。私も知っているが、あのマンションのドアは鉄製で重かった。左談次がそれを閉めようというとき突風が襲い、ドアがガッチャーンと凄まじい音を立てて閉まった。左談次が階段を降りかけた時、そのドアから談志が飛び出して来た。
「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」。
以来、キレると何をするかわからないと談志はインプットされたらしい。何か仕出かす前に帰そう。それには酒癖が悪いという口実がいい。おそらくそんな回路を経て、左談次は酒癖が悪いことになったのだ。新年会など、一門の折々の宴席で談志は言い続けた。「おい、左談次はそろそろ帰せ。あいつは酒癖が悪いんだから」。
突風のことは、左談次も、あえて言わなかった、ということか。
左談次が入門したのが昭和43(1968)年だから、昭和11(1936)年生まれの談志は、32歳。
「笑点」の初代司会者を昭和41(1966)年5月から昭和44(1969)年11月まで三年半務めている、まさにその時期。
ちなみに、あの『現代落語論』は昭和40(1965)年上梓している。二十代で書いた本なのだ。
そんな若くて、仕事にもノリノリの時期、たまたま突風のせいで重たいドアが音を立てて閉まったのを勘違いし、本名で「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」という談志の姿を思い浮かべると、なんとも可笑しい。
その左談次が、談志の異変について語った言葉も引用。
「オレたち近過ぎてわからねえんだよ。数年ぶりに会った人が、師匠おかしいと気がつくんだ」
左談次はそんな前フリから話を始めたのだが、晩年、旅のお供をしたらしい。“ひとり会”と銘打ったのに声が出ないから二席はきつく、サポート役として真打が一人同道した。その打ち上げの席だったという。
「師匠は打ち上げの席は好きだからさ、ウーロン茶を飲んでた。声も出ねえし、こっちはそれが務めだと思うから、飲みながらパアパア言ってたよ。ふと家元の視線に気づいたんだ。オレの手元のグラスを見てんだよ。で言ったんだ、左談次、おまえ酒飲めるのかって。いや、イスから転げ落ちるかと思った。驚いたねえ。じゃ今までの酒癖が悪いから帰れってのは何だったんだよってなもんさ」
若い時分にインプットされていた「左談次=酒癖が悪い」という情報が、晩年、まったく消えていた・・・・・・。
それも病による影響であろう。
左談次自身は、最後の最後まで、結構、記憶などはしっかりしていたように思う。
晩年、彼のブログをよく見ていたので、そう思うのだ。
「さだやんのほろ酔い日記」
今も見ることのできるブログ、昨年2月10日、亡くなるほぼ一か月前の記事を紹介したい。
落語で衝撃を受けたベスト3。12歳で、談志の『源平』の良さが分かったんだ・・・・・・。
先ずは小学6年生初めて行った寄席末廣での師匠談志の「源平」
コレで噺家になろうと決めた一席。
中1雨の鈴本夜円生師「妾馬」帰り道の気持ちよかった事。
噺家になってから楽屋で小さん師「道灌」の凄みと面白さに改めて震えた。
円生『妾馬』、小さん『道灌』。
左談次という噺家さんは、落語が心底好きだったんだなぁ、と知らされる、三席。
昨日は「小言は自分のため」でした。人のためにするのは意見だとか。
いずれにしても、談志があの口調でまくしたてるのだから応えるでしょうね。
余談ですが、圓生「妾馬」小さん「道灌」、聴いてみたかったなァ。