立川左談次を偲ぶ会 お江戸日本橋亭 2月11日
2019年 02月 13日
目に入ったのが「立川左談次を偲ぶ会」の文字。
立川流で左談次の弟弟子(談生)だった、鈴々亭馬桜が発起人の会のようだ。
その日の日本橋亭を借り切って、三つ開催する馬桜主催の会の夜の部で、六時開演。
これなら間に合う。
馬桜のホームページも確認。
左談次は、残念ながら聴くことができなかった。
その生の高座を体験しようと思っていた矢先に訃報に接し、その無念さを昨年書いたことがある。
2018年3月22日のブログ
客演は、落語協会で左談次と同時代に前座、二ツ目時代を過ごした雲助、一朝。
これは行かねばなるまい。
メールで依頼すると、ほどなく馬桜ご本人から了解の返信。
せっかくなので(?)、居残り会メンバーにもメールでご案内。
すぐに、複数の方から、電話で予約したとのご返事があり、ご紹介した私も嬉しい限り。
なお、馬桜は、昭和44(1969)年3月に談志に入門。
そのほぼ一年前、昭和43(1968)年4月に入門した兄弟子が、左談次。
そして、ほぼ一年後、昭和45(1970)年3月入門の弟弟子が、談四楼だ。
談四楼の『シャレのち曇り』から、立川流設立直後、馬桜(談生)が師匠が協会に戻ると固く信じていた様子を、先日紹介した。
2019年2月6日のブログ
寄席が好きだったのだろう、やはり、この人は協会に戻ったのだった。
野暮用を午後四時に済ませ、東急線で三越前で下車。
A10の出口を出て、久しぶりに日本橋亭へ着くと、長蛇の列にびっくり。
前方に佐平次さんを発見。
しばらくすると後方でI女史が手を振っている姿があった。
開演後、冒頭の馬桜の挨拶で判明したのだが、90人で打ち切る予定が、手違いで120名を超えるお客さんを受け入れてしまったらしい。
受付では、メールと電話予約別にチケットの入った封筒に名前が書かれているものと照合するなどを含めて時間を要しており、そのための行列であった。
受付で、馬桜さんにメールで予約した幸兵衛と伝え、私の名前の書かれた封筒をいただき、入場する際にプログラムとCDを頂戴することができた。
そのプログラムには、この会開催のいきさつや、この日の演題についての解説が載っていた。
小さくて読めないでしょうが、これがその内容。
「噺のはなし」とあるのが、なにやら、嬉しい^^
さて、馬桜のご挨拶やお詫びの後、開口一番以降について、感想などを記す。
鈴々舎美馬『あなごでからぬけ』 (3分 18:09~)
馬桜の口上で、「前座はいらなかったかな」の一言があったが、「短く!」という指示もあったであろう、この長さ。
初めて聴く女流。見た目は女子大生のようで、可愛いいこともあり後味は悪くないが、プログラムによると、馬るこの弟子、らしい。
えっ、馬るこが弟子をとった・・・十年早い。
鈴々舎八ゑ馬『つる』 (11分)
昨年12月24日の末広亭以来だが、マクラはほぼ同じ。
ネタは、あの時のよく分からない新作よりは、こっちの方がずいぶんと良かった。関西出身の馬風門下、という変わり種。
鼎談 雲助・一朝・馬桜 (27分)
鼎談の内容の前に、この三人と左談次について、入門、二ツ目昇進、真打昇進時期を、整理しておく。
昭和43年 2月 雲助が馬生に入門
3月 一朝が柳朝に入門
4月 左談次が談志に入門
昭和44年 3月 馬桜が談志に入門
昭和47年 11月 雲助が二ツ目に昇進
昭和48年 9月 一朝、左談次が二ツ目に昇進
昭和50年 5月 馬桜が二ツ目に昇進
昭和56年 3月 雲助が真打に昇進(第一回真打昇進試験合格)
*この「第一回真打昇進試験」については、雲助の本から記事を書いたことがある。2014年7月21日のブログ
昭和57年 12月 一朝、左談次、馬桜が真打に昇進(真打昇進試験に十人受験し全員合格)
ということで、左談次との関係では、雲助は一年兄弟子、一朝は、ほぼ同期、馬桜が真打昇進では追いついたが、一年弟弟子。
では、鼎談。馬桜が聞き役。
雲助、一朝からも上述の左談次との関係について、説明があった。
このご両人が、左談次のことを「さだやん」と呼ぶことから、左談次という人の人柄が偲ばれる。
馬桜(談生)からは、左談次と弟弟子の現在の龍志との三人会を開いていたが、それが、後に左談次&談生と、雲助、そして、一朝との三人会につながったと説明。
雲助と「さだやん」との最初の出会いは、今はなき人形町末広だったとのこと。
二人とも「さだやん」の思い出で共通するのは、酒の上での大立ち回りによる、トラ箱入り。
西浅草警察署、荒川警察署、という名が登場する。
そんな話の中、一朝が、「雲助兄いは、(警察の聴取中に)落語会のチケットを売っていた」と話す。テレビドラマと同じで、年配と若手の二人の警官が事情聴取する中、「おまえ、落語家か」となって、つい、持っていたチケットを押し付けたというから、さすが、雲助^^
これ以上は詳しく書けないが、左談次の志ん朝宅でのマージャンでの逸話なども披露された。
そして、馬桜が二人に「左談次の一席となると何ですか」とふる。
雲助「大安売り」、一朝「真田小僧」。
雲助は、「さだやんの、あの軽さ、今の落語家にはない。協会に戻って来て欲しかった」は、本音だろう。
一朝は、「楽屋で他人の噺で笑うことは、ほとんどないけど、さだやんのあの『真田小僧』には、腹を抱えた」と振り返る。
ますます、生で聴けなかったことを悔やむ鼎談だった。
ここで仲入り。
通路にまでパイプ椅子が置かれた中、少し長めのトイレタイムだったが、席でプログラムを眺めながら再開を待っていた。
後半の三席。
鈴々舎馬桜『大安売り』 (19分)
プログラムにも載っていたが、この噺は、左談次が上方の橘ノ円都に稽古をつけてもらい、東京で最初に演じたと説明。知らなかった。
橘ノ円都については、ほぼ一年前、桂小南(先代)の本を記事にした中で、ご紹介したので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2018年2月4日のブログ
マクラで知ったが、馬桜は、千賀の浦部屋の贔屓だったらしい。それも、前の親方である舛田山時代とのことで、あら、それでは居残り会仲間のYさんと共通しているではないか。
そんな短めのマクラから左談次由来のネタへ。
江戸っ子が、知り合いの関取に出会い、一杯飲ませながら、地方場所での相撲の結果を聞く噺だが、左談次の高座をなぞっていたのだろう、軽妙な語り口は、聴いていて飽きない。
上方での十日間の後、京都に行って「土つかず」は当然で、風疹で休んでいた。その後、浜松で八、九歳の子供にまで負けたという関取に対し、「それじゃ、シコ名を変えたらどうだい。丸焼けってのはどうだ。きっと、全勝(全焼)でしょう」というサゲは、馬桜の工夫とのこと。
春風亭一朝『宿屋の富』 (26分)
楽屋で、「さだやん」の逸話を思い出したとのことで、前座時代の海水浴での思い出や鹿芝居の女形のことなどをマクラで語ってくれた。
六段目の勘平が雲助、お軽が左談次なんてぇ芝居、見たかったなぁ。
本編は、見事な志ん朝型。
前半は、一文なし男と宿屋の主人の会話がとにかく楽しい。
この男が「身の回りの世話だけで、五、六十人」とか、「番頭が百五十人で勘定しても、一年経っても終わらない」とか、「泥棒が、十五、六人もいて、千両箱、たった八十箱しか減ってない」なんて話を真に受ける宿屋の主人、私も会ってみたい^^
その主からなけなしの一分で富籤を買わされた後の「これで、本当に一文なしになっちゃった」が、なぜか哀れさを伴いながらも可笑しくて笑った。
その後、富興行が行われている湯島天神の場。
夢に神様が現われて、二番富が当たるはず、という男が楽しい。もし五百両当ったら吉原の女を身請けして所帯を持つという妄想ばなし。
銀の簪をまげてまで飲ませてくれる女の優しさで泣く男の姿が楽しい。
一反のさらしで作った大財布の中から、細かくした五百両を取り出す場面の「ズンズンズン」「ドカーン」といった擬音でも、爆笑。
「お膳にお銚子が一本のっていて、刺身があって鰻があって天麩羅があってお椀がある。“どうだお前も一杯”“いや~ん、酔っちゃうから”“いいじゃないか、酔ったって”“そう・・・あぁ酔っちゃった、寝ましょう”・・・起きて湯に行って帰ってくると、お膳にお銚子が一本のっていて~」の繰り返しも、小気味の良い語り口で、江戸落語の一つの醍醐味を味わわせてくれる。
一文なしの男が一番富に当たっているのを確認する過程も、くどくなり過ぎずに楽しませてくれる。「あっちが、子の千、三百、六十五、こっちが、子の、千、三百、六十、五・・・・・・近いだけに悔しい」という間も結構だし、目の仕草や声の調子で微妙な心理の変化を表現するあたりも、流石である。
宿屋の主人が、すぐに一番富と分かるテンポの良さが対照的で結構。
飛んで帰ってから、宿屋の主人が、「あわあわ・・・」と言葉にならない驚きを見せているのを訝しがる女房、半分の五百両を貰えると分かった途端、女房も「あわあわ・・・五、五、五・・・」には、『火焔太鼓』のサゲ前の夫婦の姿を見るような可笑しさがあった。
左談次のCDの内容は別途書くとして、その「さだやん」への思いも込めていただろう好高座、今年のマイベスト十席候補としたい。
五街道雲助『付き馬』 (35分 ~20:38)
左談次の『権兵衛狸』の思い出から、本編へ。
丁寧に「馬」とは何かを解説。
聴いていて、「まるで、小満んだ!」と思うくらい、川柳や気の利いた科白が程よく挟まる。
吉原をひやかす客の様子を「見ぬようで見るようで 客は扇の垣根より」や、つい遊びに行く様子を「田楽の串で小判の封を切り」なんて科白は、なかなか若手では似合わないが、ピタっとはまる。
「提灯を持つ」なんてぇ科白も二度ほどあったが、若い人に、その意味が分かっただろうか。こういう言葉、大好きだ。落語に登場する、死語になりつつある言葉、ぜひ、小満んや雲助のように使い続けて欲しい。「分からないから、変える」というのは簡単だが、変えない魅力が、落語にはあるのだよ。
さて、この男、若い衆、妓夫太郎をまんまと騙したあくる朝も、浅草田町のオバさんが貸した金を集金に行く予定の仲通りの店を見て、「ちょっと早すぎたねぇ」の後、「居続けの ばかばかしさに 上天気」なんてことを言って、若い衆を大門から外に連れ出そうとする。
「なに、土手を上がるだけ」の後、「私の目を見ろ、目を」と指で目を指してみせる姿が、この後にも出てくるが、可笑しくてならない。
それからの道中については、見事な言い立て、と評することができる。
湯屋->豆腐屋->花屋敷->銅像->観音様->ハトに豆をやるおばさん->仁王像->仲見世の人形焼->オモチャ屋->豆屋->紅梅焼き->雷門->神谷バー->築地行きのボギー車、と辿って、「ボギー車、乗る?」なんて聞かれたら、もう若い衆も黙っちゃいない。
しかし、若い衆の剣幕に、この男が動じるはずもない。筋書きがすでに出来ているわけで、「田原町のオジさんの所で、勘定をこしらえてもらう」と答える。周到な詐欺の仕上げが近づく。
勘定は二十三円六十五銭だが、「十円札を三枚上げよう」に加え、「帯源の帯を付けよう。一度しか使っていない。五十の着物に百の帯、なんて言うじゃないか」と、騙しの微細な演出の見事なこと。
最後の、“オジさん”の早桶屋での主人と若い衆の頓珍漢な会話は、お手の物。
「長かったんですか」->「たった一晩でして」
「だいぶ、はれたようで」->「ほれたかはれたかわかんないんですが」
「仏様はお喜びでしょう」->「ばかな喜びようで、しまいには裸でカッポレ」
このあたりの会話の妙は、この噺がよく出来ているなぁ、と再認識させる。
もちろん、演じ手が悪けりゃ、噺本来の持ち味を引き出すことはできない。
久しぶりの雲助だったが、さすがだ。
この噺では、2013年、県民ホール寄席の300回記念における小三治の名高座を思い出す。
2013年9月26日のブログ
居残り会では、最近では、漫談か短い噺しか聴くことのできないらしい小三治だが、あの日のこの噺は、凄かったなぁ。
雲助も、この噺の持つ魅力を出し尽くすかのような高座。今年のマイベスト十席候補とする。
最後は、馬桜、寄席文字の右橘さん、そして、左談次のお内儀も出てきて、雲助による三本締めにてお開き。
終演後は、佐平次さん、Kさん、I女史、M女史の五人で、佐平次さんがよくご存知の東京駅のビル内のお店で、楽しみだった居残り会。
ステーキ屋さんだが、他の料理もワインに合い、話も弾む。
I女史の直近の海外旅行でのちょっとした騒動のことや、Kさんが十歳で一人で寄席に出かけて行った時の、甘く淡い思い出なども飛び出し、あっという間に閉店時間。
十一時の閉店まで粘っていては、帰宅は日付変更線を超えるのだよね。
皆さんをお誘いした甲斐のある、結構な追善落語会、そして、居残り会だった。
M女史からは、居残りメンバーがほぼ全員揃う予定の落語会のチケットを受領した。
その会も、そして、居残りも、楽しみだ。
誰かにこの会のことを尋ねられたならば、幸兵衛さんの記事を読むように誘導致しましょう ^^
いえいえ、メモと記憶を頼りに、だらだら書き連ねただけでして、過分なお褒めには、恐縮するばかり。
鼎談を含め、いろいろ考えさせる会でもありました。
立川流に残った人、去った人、人それぞれではありますが、左談次の一周忌を機に、弟弟子たちが再会するなんてことを期待している私です。
左談次師は広小路亭の立川流寄席と大阪のブラック師の会で、2回拝見しています。ネタはどちらも『町内の若い衆』だったと思いますが・・・。すっきりした姿と語り、そして鋭い眼光と毒舌、理屈抜きに「江戸の噺家」というムードがありました。
『付き馬』名演でした。浅草道中は楽しく心地よく風景がありありと見え、しかも若い衆の不安を体感出来ました。
お久しぶりです。
いらっしゃいましたか!
生の左談次をお聴きでしたか、羨ましい。
江戸の噺家、その片鱗はCDからもうかがえます。
雲助は久しぶりでしたが、流石でした。
一朝の江戸っ子も、良かったなぁ。