生涯不良、勝小吉という男(7)ー勝小吉『夢酔独言』より。
2019年 01月 30日

勝小吉『夢酔独言』
勝小吉の自叙伝『夢酔独言』からの七回目、最終回。
十四歳の時、家を飛び出した小吉。
さまざまな体験をし、また、いろんなご縁に助けられ、四ケ月ぶりに帰宅。
大事な所に怪我をしたこともあり、十日ばかり寝ていた。
夫から親父が、おれの頭石川右近将監に、かへりし由をいって、「いかにも恐入る事故に小吉はいん居させ、外に養子にいたすべき」といったら、石川殿が、「今月かへらぬと月切れ故、家は断絶するが、まづゝゝかへって目出たい。夫には及ぬ。年取りて改心すれば、おやくにもたつべし。よくゝゝ手当してつかわすべし」とていわれた。夫で一同安心した、とみんなが咄した。
小吉、結構締め切り寸前での帰宅だったようだ。
また、頭(小普請支配)の石川が、寛容だったことにも救われたと言えるだろう。
NHKのBS時代劇「小吉の女房」には、高橋和也演じる、小吉の幼なじみの石川太郎左衛門が登場するが、これは脚本家の創作だろう。
小吉にとっての“石川”は、小普請支配だった石川将監のこと。
ただし、右近ではなく、左近。小吉の間違いだ。
本名は石川忠房で、宝暦五(1756)年生まれ。だから、享和二(1802)年に小吉が生まれた時、すでに四十六歳。
数え十三での小吉の家出と想定すると、その時、石川はほぼ還暦。
幼名は太郎右衛門。
脚本家が、右を左に変えて、小吉の幼馴染という設定にしたのだろう。
この人は、有能な旗本で、北海道の松前に派遣された時、ロシアに漂流しエカテリーナⅡ世に謁見した大黒屋光太夫を受取っている。
歌人でもあり、北海道大学附属図書館に松前派遣時の和歌集がある。
その後、勘定奉行なども務めた人だ。
それだけの大物だから、小吉の不良ぶりも、広い心で許してあげたということか。
しばらく後に、小吉は石川と対面することになる。
十六の年には漸々しつも能(よく)なったから、出勤するがいゝといふから、逢対(あいたい)をつとめたが、頭の宅で帳面が出ているに銘々名を書くのだが、おれは手前の名がかけなくってこまった。人に頼んで書て貰た。
石川が逢対の跡で、「こじきをした咄をかくさずしろ」といったから、はじめからのことをいったら、「能く修行した。今に御番入をさせてやるから心ぼうをしろ」といはれた。
逢対とは、小普請組という無役の旗本が、御番入、役に就いて仕事をするために、支配や組頭が出勤するのを見送りに行ったり、御機嫌伺いをする、いわば、就職活動。
「小吉の女房」でも、小吉が逢対に出かける場面があった。
逢対で、石川忠房が小吉の旅の話を聞いてくれた時は、小吉もさぞ喜んだだろう。
しかし、成果は、なかなか出なかった。
石川は、松前では大黒屋光太夫から、ロシアの旅のことも聞いていたはずなので、ミニ光太夫と話すような興味本位の感覚だったのかもしれないねぇ。
そういう石川の慈悲があったにもかかわらず、小吉の不良ぶりは、変わらない。
十六で、吉原も初体験している。
また、喧嘩にも精を出した(?)。
これは、喧嘩の師匠に出会ったことも大きいかもしれない。
喧嘩の師匠・源兵衛
或日、おれの従弟の処へいったら、其子の新太郎と忠次郎といふ兄弟があるが、一日いろいろのはなしをしていたが、そこの用人に源兵衛といふがいたが、剣術遣ゐだといふことだが、おのれにいふには、「お前さまはいろいろとおあばれなさり舛が、喧嘩はなしましたことがあり舛か。是は胆がなくってはできません」といふから、「おれは喧嘩は大好きだが、ちいさい内から度々したが、おもしろいものだ」といったら、「さやうで御座舛か。あさっては蔵前の八幡の祭があり舛が一喧嘩やしましやうから、一所にいらしゃっひまして、一勝負なさいまし」といったから、約束をして帰った。
この“従弟”の子の新太郎が後の精一郎、「幕末の剣聖」と言われた男谷信友だろう。
その信友は小吉の四歳年上、年齢も近く、少年時代は小吉と一緒に暴れていたわけだ。
さて、八幡さまの祭での喧嘩のこと。
其日になりて夕方より番場の男谷家へいったら、先の兄弟もまっていて、「よく来た。今、源兵衛が湯へいったから帰ったら出かけよふ」と支度をしていると、間もなく源兵衛が帰った。夫より道ゝ手はづをいゝ合て八幡へいったが、みんなつまらぬやつ斗りで、相手がなかったが、八幡へはゐると、向ふよりきいたふうのやつが二、三人で鼻歌をうたって来る故、一ばんに忠次郎がそゐつへ唾を顔へしかけったが、其野郎が腹を立て、下駄でぶってかゝりおった。そふするとおれがにぎりこぶしで横つらをなぐってやると、跡のやつらが総がかりにぶってかゝりおるから、目くらなぐりにしたら、みんなにげおったゆへに、八幡へいってぶらぶらしていると、二十人ばからい長鳶を持てきおった。
「なんだ」と思っていると、壱人が、「あの野郎だ」とぬかして四人を取りまきおった。夫から刀をぬいて切りはらったら。源兵衛がいふには、「早く門の外へ出るがいゝ。門をしめると取りこになる:と大声でいふから、四人が並で切り立て、門の外へ出たら、そいつらが加勢と見へて、また三十人斗りとび口を持て出おったから、並木の入口の砂場蕎麦の格子を後ろにして、五十人斗を相手にしてたゝきあったが、一生けん命になった。
四、五人ばかりきづを負はしたら、少し先がよわくなったゆへ、むやみにきりちらし、とび口を十本ほどもたゝき落した。そふするとまたゝゝ加勢が来たが、はしごを持て来た。
其時源兵衛がいふには、「最早かなわぬから三人は吉原へにげろ。跡は私がきりはらい帰るから」と「早くゆけ」といったが、三人ながら源兵衛ひとりをおくを不憫におもひ、「一所におひまくって、一所ににげよふ」といったら、「おまへさん方は、けがゝ有ってはわるいから、是非早くにげろ」とひたすらいふゆへ、おれが源兵衛の刀がみぢかひからおれの刀を源兵衛のい渡して、直々に四人が大勢の中へ飛こんだら、先のやつはばらばらと少し跡へ引込だはづみに、にげだして、漸々浅草の雷門で三人一所になり、吉原へいったが、源兵衛がきづかはしいから引きもどして、番場へいって飯をくおふとおもっていったら源兵衛は内へ先へ帰って、玄関で酒を呑んでいたゆへに、三人が安心した。
四人対五十人、の喧嘩。
この後、小吉たちは源兵衛と八幡の前にある自身番に行ってみると、大勢の人が集って、喧嘩のことを話しているのを耳にする。
そこへいって聞いたら、「八幡で大喧嘩があって、小揚の者をぶったがあじまりで、小あげの者が二、三十人、蔵前の仕事師が三十人ばかりで、相手をとれへんとしてさわいだが、とふゝゝ壱人もおさへずにがした。その上にこちらは十八人ばかり手負が出来た。今外科がきづを縫ている」といふから、四人ながら内へかへって、おれは亀沢丁へかへったが、あんなひどひことはなかったよ。
“あんなひどひこと”とは、誰にとっての言葉なのか・・・・・・。
この翌年、十七歳の時、小吉は新太郎と忠次郎の家へ行き、忠次郎と剣術の手合わせをしたら、「出会頭に胴をきられ」て、気が遠くなった。
その後も、一本も忠次郎を打つことができず、「夫から忠次にきいて団野へ弟子入にいった」。
この団野とは、団野源之進のこと。
宝暦十一(1761)年生まれというから、小吉が入門した時は、五十も半ばだった。
この人、終生浪人だった人で、直心影流五代の赤石郡司兵衛の弟子で、六代目を継いだ。
安政元(1854)年に、道場を男谷精一郎(信友)に譲り、翌年没したとされる。
九十歳を超えての往生。
団野の道場で、腕を磨いた小吉は、数々の他流試合に挑んでいる。いわば、道場破り、だね。
結局、本所では小吉にかなう者はいなくなった。
その後の、小吉のしばらくの行動を、本書巻末の「夢酔年譜」から、拾ってみる。
文政元(1818) 十七歳 刀の鑑定を学ぶ。兄と信州へ行き、十一月江戸に帰る。
文政二(1819) 十八歳 信州の兄の所へ行く。実母没す。江戸へ帰る。兄と越後蒲原郡水原の
陣屋へ行く。この年身代(世帯)を持ち兄の所は移る。
文政五(1822) 二十一歳 再び江戸を出奔、上方をさして東海道を行く。七月江戸へ帰り、
父に檻に入れられる。
なんと、十四の時に続き、二十一歳でも、家出をしているのだ。
それは、小吉を慕う連中がいて、どうしても無理をしてしまったり、気晴らしに吉原へ通ったりするうち借金がかさみ、にっちもさっちも行かずに、父親から譲られた刀などを質に入れての旅だった。
無役で、心理的にも、兄の家にはいずらい毎日を送ってもいたのだろう。
この時は、まず最初に、小田原で十四の時の旅で世話になった喜平次に家に行ってご馳走になり、掛川では、江戸で世話をした息子のいる神主の家に逗留したり、また、途中の宿では、水戸藩侍と嘘をついてはただで泊まっていたので、七年前のように乞食をしながらの旅とはまったく違うのだが、帰った時に、さすがに父は怒った。
小吉は、父の隠居所に呼ばれた。
親父がいふには、「おぬしは度々不埒があるから先(まず)当分は逼塞して、始終の身の思案をしろ。しょせん直には了簡はつく物ではないから、一両年考て見て、身のおさまりをするがいゝ。兎角、仁は学問がなくってはならぬから、よく本でも見るがいい」といふから内へ帰ったら、座敷へ三畳のおりを拵え置て、おれをぶちこんだ。
それから色々工夫をして一月もたゝぬうちおりの柱を二本ぬけるようにしておゐたが、能々(ようよう)考へたが、みんなおれがわりいから起きたことだ、と気がつゐたから、おりの中で手習を始めた。
夫からいろゝゝ軍書の本も毎日見た。友立が尋ねてくるから、おりのそばへ呼で、世間の事を聞てたのしんでいたが、廿一の秋から廿四の冬迄、おりの中へはゐっていたが、くるしかった。
“くるしかった”とあるが、麟太郎は、小吉が二十二の時に、生まれている。
くるしいばかりでも、なかったのだろう。
あらためて「夢酔年譜」より。
文政八(1925) 二十四歳 再び出勤する。外宅をして割下水天野左京の家を借りる。
諸道具の売買をして内職とする。
文政十(1827) 二十六歳 六月九日、実父男谷平蔵没す。
文政十二(1829)二十八歳 行・水行・加持祈祷を試みる。刀剣の研ぎ・目利きを試み、
刀剣講を催す。浅右衛門の弟子となり胴試しをする。
長男麟太郎、御殿(西丸)に召され初之丞(家慶の五男慶昌)のお付きとなる。
天保元(1830) 二十九歳 入江町岡野孫一郎支配の地面へ移る。
天保二(1831) 三十歳 息子麟太郎御殿より下り家へ帰る。犬に噛まれ重傷。
次回の「小吉の女房」は、天保二年、麟太郎を襲った災難のこと。
NHKサイトの該当ページ
まだまだ、小吉のことでは紹介したいことがあるのだが、ドラマの筋書きに追いついたところで、このシリーズ、お開き。
勝小吉、この男にとっては、生まれた時代が悪かった、とも言えるかもしれない。
石川忠房は、記したように宝暦五(1756)年生まれ。
以前、平岩弓枝の『橋の上の霜』から記事を書いた、蜀山人、大田直次郎は、寛延二(1749)年と、年齢が近い。
大田直次郎も貧乏旗本の部類に入る人で、出世のために、登用試験を受けるなどした。江戸開府から百年以上も過ぎた徳川の世は、もはや「武」ではなく「文」の時代に移り変わっていた。
そんな時代に、武ではひけをとらないものの、文はからきし苦手の小吉のような旗本は、なかなか生きていくのが、大変だったのである。
その父親が、自分を反面教師とせよ、とばかりに書き残した自叙伝は、息子麟太郎が、勝海舟として幕末に精彩を放つために、十分、役立ったように察する。
さぁ、ドラマも佳境を迎えている。
このシリーズが、少しでも参考になったのなら、嬉しい限り。
長々のお付き合い、誠にありがごうございます。
