生涯不良、勝小吉という男(6)ー勝小吉『夢酔独言』より。
2019年 01月 29日

勝小吉『夢酔独言』
自叙伝『夢酔独言』からの、六回目。
長くなったけど、七回でお開きの予定。
前回は、野宿をして、がけでから落ちてしまい、大事なところを打った、という話までだった。
さぁ、大変。その後、どうなったのか。
二、三日過ぎると、少しづゝよかったから、そろゝゝとあるきながら貰っていったが、箱根へかゝってきん玉がはれて、うみがしたゝか出たが、がまんをして其あくる日、二子山まであるいたが、日が暮れるから、そこに其晩は寝ていたが、夜の明方、三度飛脚が通りて、おれにいふには、「手前ゆふべこゝに寝たか」といふゆへ「あい」といったら、「つよひやつだ。よく狼に食われなんだ。こんどから山へは寝るな」といって、銭を百文斗り呉た。
夫から三枚橋へきて、茶屋の脇に寝ていたら、人足が五、六人来て、「子蔵や。なぜ寝ている」といゝおるから、「腹がはってならぬから寝ている」といったら、飯を一ぱゐくれた。
飛脚も、人足も、優しいのである。
文化庁が運営する「文化遺産オンライン」に、三枚橋の写真がある。
文化遺産オンラインの該当ページ
キャプションに、こう書かれている。
明治43年の早川洪水の後に再建された、吊橋の三枚橋です。橋の向こうに並ぶ建物は江戸時代から続く茶店で、「七軒屋」と呼ばれました。
小吉が、脇で寝ていた、という茶屋が、この「七軒屋」なのだろう。
ちなみに、約五十年後の慶応三(1867)年五月の「戊辰箱根の役」で、旧幕府遊撃隊伊庭八郎が斬られたのが、この三枚橋の松並木の下だった。
さて、その三枚橋の茶店で飯を食わせてくれた人足の一人が、小吉に、声をかける。
其中に四十くらいの男が云には、「おれの所へきて奉公しやれ。飯は沢山くわれるから」といふゆえ、一所にいったら、小田原の城下のはづれの横丁に、漁師町にて喜平次といふ男だ。
おれを内へいれて、女房や娘に、「奉公につれてきたから、かわひがってやれ」といった。女房むすめもやれこれといって、「飯をくへ」といふ故、飯を食ったらきらずめしだ。魚は沢山あって、やひてくれた。
小吉の旅の記録を読むと、あらためてあの時代の日本人の優しさが伝わってくる。
小田原の喜平次の家で、翌日から小吉は毎日海へ出るようになった。
漁師たちは、亀と名乗った小吉の姿を見て「亀があるくなりはおかしい」と言う。そりゃあそうだ。まだ、あそこの怪我は治っていないから、かくしてはいても、はれた急所をかばいながら歩いていたのである。
それでも、仕事はしっかりやってようだ。
毎日、朝四つ(十時)時分には沖より帰って、船をおかへ三、四町ひき上げ、あみをほして、少しづゝ魚を貰って帰って、小田原の町へ売りにいった。
夫から内へかへって、きらずをかって来て、四人の飯をたくし、近所のつかひをして二文、三文づゝ貰った。内の娘は三十斗りだが、いゝやつで、ときどきすゐくわん(すいか)なぞを買ってくれた。女房はやかましくって、よくこきつかった。
喜平は人足故、内はは夜ばかりゐたが、是はやさしいおやぢで、時々くわしなんぞ持って来て呉た。十四、五日ばかりいると、子のよふにしおった。
よほど喜平に気に入られたのだろう、「おらが所の子になれ」と言われたが、「こんなことをして一生いてもつまらねへ」と、小吉は、閏八月の二日、喜平次の家から銭三百文を戸棚から盗んで、飯を弁当に詰めて、「浜へ行く」と言って、逃げたのであった。
それから、江戸に戻り、鈴が森で犬に追われたり、高輪の漁師の家の裏で船をひっくり返して寝ていたのを見つかって、叱られたりした。
四ヶ月、家出をしていたので、なかなかすぐには帰りづらかったのだろう、しばらく回向院の墓場に隠れたりして人目を忍んでいたが、銭も尽きて、亀沢町の家に帰る。
内中、「小吉が帰った」といって大さわぎをし、おれが部屋にはいって寝たが、十日ばかりは寝どふしをした。
おれがいなゐ内は、加持祈祷いろゝゝとして従弟女の恵山といふ比丘は上方まで尋ねて登たとではなした。
夫から医者がきて、「腰下に何と仔細あろふ」とていろゝゝいったが、其時はまたきん玉がくづれていたが、強情に、「ない」といってかくしてしまったが、三月ばかり立つと、湿ができてだんゝゝ大そふになった。起居もいできぬよふになって、二年ばかりはそとへもいかず、内すまいをしたよ。
十四歳の小吉の大冒険は、少し痛いお土産を伴って、終わった。
四ヶ月のこの体験は、彼にとって生涯忘れることのできないものだったのだろう。
『夢酔独言』を書いたのが、四十過ぎなのだが、ご紹介したように、それぞれの出来事が、つい少し前のことのように細かな点も含め書かれているのに驚く。
次回最終回では、その後の“不良”ぶりについて、ご紹介したい。
