生涯不良、勝小吉という男(2)ー勝小吉『夢酔独言』より。
2019年 01月 24日

勝小吉『夢酔独言』
『夢酔独言』から、勝小吉の半生を辿るシリーズの二回目。
前回ご紹介した五歳の時の喧嘩は、相手は一人。
ところが、この男、その二年後に、とんでもないことをしている。
おれが名は亀松と云。養子にいって小吉となった。夫れから養家には祖母がひとり、孫娘がひとり。両親は死んだのちで、不レ残深川へ引取り、親父が世話をしたが、おれはなんにもしらずに遊んでばかりいた。この年に凧にて前丁(まえちょう)と大喧嘩をして、先は二、三十人ばかり。おれはひとりでたゝき合、打合せしが、ついにかなわず、干かば(鰯場)の石の上におゐ上げられて、長棹でしたゝかたゝかれて、ちらしかみ(髪)になったが、なきながら脇差を抜て、きりちらし、所(しょ)せんかなわなくおもったから、腹をきらんとおもひ、はだをぬいで石の上にすわったら、其脇にいた白子やといふ米やがとめて、内へおくってくれた。夫よりしては近所の子供が、みんなおれが手下になったよ。おれが七つの時だ。
絵に描いたような、ガキ大将の誕生^^
七歳にして、喧嘩に負けそうになって腹を切ろうとするあたりが、なんとも凄い。
命などいつでも捨ててやる、という精神、生涯変わらなかったのではなかろうか。
「小吉の女房」で江波杏子さん演じる義理の祖母は、こういう子供時代からの小吉の不良ぶりを知っているのだ。だから、この婿には厳しい対応となるのも、むべなるかな。
さて、勝家の祖母と孫娘(後の小吉の女房)も預かった男谷家は、深川から本所に引っ越す。
その理由が「たびゝの津波故」と書いている。
少し調べてみると、小吉が生まれる十年ほど前、寛政三年(1791)の9月4日に、深川洲崎一帯を突然の大津波が襲い、あっという間に三百数十軒の人家と住人たちが飲み込まれたという記録がある。
深川という場所では、いつどんな津波の被害に遭遇するか分からない、だから、内陸に引越したのだろう。
さて、その引越し後のこと。
翌年、よふゝ本所のふしんが出来て、引越したが、おれがいる処は表のほふだが、はじめてばゝどのと一所になった。そふすると毎日やかましいことばかりいゝおったが、おれもこまったよ。不断の食ものも、おれにはまづいもの斗(ばか)りくわして、にくいばゝあだとおもっていた。
深川の家よりも、本所の引越し先は広かったに違いない。
そのために、八歳で、初めて、養家の義理の祖母と一緒に暮らすようになった。
「食いもの」への不満が書かれているが、なるほど、「小吉の女房」における、食事時の小吉(古田新太)と登勢(江波杏子さん)とのにらみ合いには、長~い歴史があるわけだ。
この義理の祖母と毎日顔を合わせる生活で、小吉の無鉄砲さに拍車がかかったかもしれない。とんでもない、大喧嘩をしでかす。
おれは毎日ゝそとへ斗(ばか)り出て遊んで、けんくわばかりしていたが、或時亀沢町の犬が、おれのかっておゐた犬と食い合って、大げんくわになった。そのときは、おれがほふは、隣の安西養次郎と云ふ十四斗(ばかり)のがかしらで、近所の黒部金太郎、同(おなじく)兼吉、篠木大次郎、青木七五三之助(しめのすけ)と高浜彦三郎におれが弟の鉄朔(てつさく)と云ふのと八人にて、おれの門のまへで、町の野郎たちとたゝき合をした。亀沢町は、緑町の子供を頼んで、四、五十人ばかりだが、竹やりをもって来た。こちらは六尺棒・木刀・しなゐにてまくり合しが、とふゝ町のやつらをおゐかひした。二度目には、向ふにはおとながまじり、又ゝたゝき合しが、おれが方がまけて、八人ながら隣の滝川の門の内へはいり、息をつきしが、町方には勝に乗て、門を丸太にてたたきおる故、またゝ八人が一生けん命になって、こんどはなまくら脇差を抜いて、門を開いて、不レ残切って出たが、其いきおいにおそれ、大勢がにげおった。こちらは勝に乗って切立しが、おれが弟は七つ斗りだがつよかった。いちばんにおっかけたが、前町の仕立やのがきに弁次といふやつが引返して来て、弟のむねを竹やりでつきおった。その時おれがかけ付て、弁次のみけんを切ったが、弁次めがしりもちをつき、どぶのなかへおちおった故、つづけうちにつらを切ってやった。前町より子供のおやぢがでゝくるやら、大さわぎさ。夫から八人が勝どきを揚て引返し、滝川の内へはゐり、互ひによろこんだ。そのさわぎを、おやぢが長屋の窓より見ていて、おこって、おれは三十日斗り目通止られ、おしこめにあった。弟は蔵の中へ五、六日おしこめられた。
七人の侍、ならぬ、八人のガキ大将が、相手、四、五十人と戦ったというのだから、なんとも。
五歳の時も、八歳のこの大立ち回りも、なぜか父親は現場を近くで見ているので、どちらも現行犯逮捕だ。
三十日ほど、誰とも会えず部屋におしこめられた小吉だが、その数年後、それよりずっと長いお仕置きを受ける日がやって来る。それは、少し後の回で書くことにしよう。
とにかく、喧嘩は好きで、強かった、小吉。
無手勝流のストリートファイトでは困る、と思ったのだろう、親の薦めで稽古に行ったこともある。
九つの時、養家の親類に、鈴木清兵衛といふ御細工所頭を勤める仁、柔術の先生にて、一橋殿・田安殿始諸大名、大勢弟子をもっている先生が横綱町と云ふ所にいる故、弟子になりにゆくべしと、親父が云ふ故いったが、三、八、五、十がけいこ日にて、はじめて稽古場へ出て見た。
この、三、八、五、十がけいこ日、という表現は原文のママなのだが、たぶん、五と八が入れ違っているのだろう。
この稽古で、多勢に無勢で思うようにならなかったこともある。
とはいえ、ただでは負けないのが、小吉なのだ。
柔術のけいこばで、みんながおれをにくがって、寒げいこの夜つぶしと云ふ事をする日、師匠からゆるしがでゝ、出席の者が食いものをてんでんにもち寄って食うが、おれも重箱へまんぢうをいれていたが、夜の九つ時分(十二時)になると、けいこをやすみ、みなゝ持参のものをだしてくうが、おれもうまひものをくってやろうとおもっていると、みんなが寄って、おれを帯にてしばって天上へくゝし上げおった。其下で不レ残寄りおって、おれがまんぢうまでくゐおる故、上よりしたゝかおれが小便をしてやったが、取りちらした食べものへ小便がはねおった故、不レ残捨ててしまいおったが、その時はいゝきびだとおもったよ。
あまり想像したくない場面^^
さて、そんな小吉が、旅に出るのだが、そのお話は次回。
