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「忠臣蔵」を作った男、多門伝八郎(5)ー佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」より。

 さて、旧暦十二月十四日が、あと二日後に迫った。

 夜、月を見ると、赤穂浪士が、月明かりも味方につけて討ち入りを成就できたことが、よく分かる。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 ということで(?)、佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元にしたシリーズも、ついに最終回。

 江戸城における元禄十四年三月十四日に起こった、刃傷事件の後、浅野長矩の取調べを行った目付の一人、多門伝八郎が残した覚書には、いくつも不審な点があることを、紹介してきた。

 あらためて並べてみる。

 (1)浅野長矩の辞世の歌の紹介
 (2)介錯の刀に自分の差料を使ってくれと長矩が頼んだ、という逸話
 (3)切腹の場所が庭先であることについて、上司の大目付に抗議したという記述
 (4)幕府の裁定について抗議し、老中上座柳沢吉保の怒りを買ったという記述

 これらのことは、田村家関連の三つの記録を含め、他の史料には、いっさい存在しない。

 なぜ、多門伝八郎は、そんな記録を残したのか・・・・・・。

 本書は、この人自身の人生から、その理由を探ろうとする。

『覚書』は失意の中で書かれたか

 それにしても、どうして多門はこのようなことを書くのだろうか。
 ほかにも奇妙な記述は『多門覚書』にいくらもある。切腹の上意を長矩がうけたまわったとき、「切腹を仰せ付けられありがたき仕合せ」との御請の言葉を言った後で、吉良の様子を尋ねるのである。そこで多門と大久保の両人が口をそろえて言う。
「傷は二箇所あり、浅手だが、老人のことであり、急所を強く突いたこともあり養生のほどはおぼつかない」
 すると長矩は「落涙の体(てい)にてにっこと笑い」切腹の場所に着いた、という。何か芝居の脚本を読んでいるような気がする。
 お城を出て田村邸へ向かうところも大時代的である。
「お城より一統罷り出(いづ)べく候ところもはや三月十四日夕七つ時二分廻りなり・・・・・・」
 小説を読んでいるような気がする。
 『多門覚書』は読めば読むほど作りごとめいて見える。これは多門が見たものを書き記そうとした記録ではなく、何かすでにある事件の中で自分の立場を書き残そうとした記録ではないか。一つは徹底した浅野寄りのスタンスで書いた事件報告である。そしてその中で多門伝八郎はまことかっこいい。

 ということで、著者は、この多門伝八郎の人生を追ってみるのだった。

本名、多門伝八郎重共(しげとも)。万治二年(1659)生まれ。
寛文六年(1666)、十月八日、将軍に拝謁(八歳)。
延宝四年(1676)七月十二日、遺跡を継ぐ(十八歳)。
延宝五年(1677)五月十日、御書院番(十九歳)。
元禄九年(1696)四月二十三日、小十人頭(こじゅうにんがしら)(三十八歳)。
元禄十年(1697)二月十五日、目付。
同年七月二十六日、三百石増で計七百石(三十九歳)。
元禄十六年(1703)十月二十三日、加役(かやく)として火の元改(四十五歳)。
宝永元年(1704)六月二十六日、火の元改を許される。
同年八月二日、小普請(こぶしん)に貶(おと)される(四十六歳)。
享保八年(1723)年六月二十二日、死去(六十五歳)。

 この経歴を眺めていて、どうしても、四十六歳での降格、そして、その後の約二十年間、そのままの無役であったことが、気になる。

 本書の著者も、その点に着目していた。
 
 言うまでもなく「小普請組入り」とは旗本にとって無役ということである。多門伝八郎の身にいったい何があったと言うのか。なんらかの失態を演じた、と想像できる。

 無役の旗本、となると、先日から始まったNHK BS時代劇の勝小吉を思い浮かべる。
 しかし、小吉は、刀の目利きをしたり、町の人々に慕われていたので顔役として小遣いを稼ぎ、なんとか糊口を凌いでいた。

 多門は、いったいどんな苦労をしていたものか。

 無役になった理由としては、この経歴から察するに、火の元改を首になったことに訳がありそうだ。

 実は元禄十六年(1703)十一月、江戸に大火があり、江戸城内にも火が入ったことがあった。そのとき、伝八郎は加役として火の元改の役にあった。加役というのは目付の職はそのままで別の役を兼ねるということである。火の元改としての責任をとらされたのではないか、というのが私の見方である。
 これは伝八郎にとって思ってもない災難だったと思われる。目付として実績を積み、いよいよこれからが出世コースの後半戦に入るときだった。まさか四十六歳で、以後二十年間、役に就けないまま人生を終わるとは思ってもみなかったに違いない。
 元禄十六年の大火は、水戸上屋敷からの出火で別名「水戸様火事」と呼ばれている。
 水戸藩上屋敷の場所は、今の小石川後楽園。
 発生した火事は、本郷、浅草から隅田川を越え本所、深川方面まで類焼し、湯島天神や湯島聖堂なども焼失したと言われる。
 この火事における火の元改としての失態が、降格につながったと言うのは、経歴から察してあり得ることだろう。

 そして、著者は、伝八郎が無役になった不幸こそが、「忠臣蔵」創作につながったのではないかと推理するのである。

 エリート旗本の挫折。私はこの失意の二十年間が多門にこの『覚書』を書かせたのではないかと推測している。小普請に入ってみれば、目付として働いていた頃が一番自分が輝いていた頃なのだ。そしてその時に遭遇したのがあの赤穂事件だった。浅野長矩には取り調べもした。討ち入りの四十七士に入った片岡源五右衛門は田村邸に遺骸を引き取りに来たそうだが、自分は城に帰った後で会っていない。しかし浅野長矩が言付けを託した人物だ。吉良もよく知っている。
 多門伝八郎の頭の中で、あの事件の記憶がゆっくり回りだした。時間はたっぷりある。思い出しながらあの事件を書き残そう。と、考えても不思議ではないのではないか。

 たしかに、時間はたっぷりあっただろう。

 そして、つい、空想も筋書きに紛れ込んだかもしれない。
 あるいは、それが思い込みになった可能性も、なきにしもあらず。

 著者は、『多門覚書』に細かい人名の間違いが多く、たとえば柳沢吉保を松平美濃守と後の名前で書いていることなども指摘。よって、この覚書が、事件からだいぶたった後に書いたものと推測している。

 著者は、当時の多門の心理を、次のように推理する。

 刃傷事件当時は浅野には厳しい裁定だったが、討ち入りの後、世間の評判は圧倒的に浅野びいきである。自分なら書ける、自分にしか書けぬこともある。という気持ちもあっただろう。多少フィクションが入っても、当時の目付が書いたものと知られればみんな信用するに相違ない。別にこれで金儲けするわけではないのだ。書こう。

 そして、当時、実際には上司である大目付の庄田に反抗したり、老中上座の柳沢に食ってかかるなどはあり得なかっただろうが、書き出すうちに、どんどん自分がヒーローになっていったのではないか、と推察している。

 本書の「第四章 忠臣蔵を作った男・多門伝八郎」は、次のように締めくくられる。

 エリート旗本の二十年間の失意。それが『多門伝八郎覚書』を生んだに違いない。それは事実であって事実でない。挫折した男の夢が入り混じった話である。
 しかし、それらは「風さそう」の辞世の歌になり、片岡源五の暇乞いとなり、無数の芝居や映画、ドラマの筋の原型となって後世の人に夢を与えた。そのことを思うと、私は多門伝八郎をけっして非難しようとは思わない。

 たしかに、多門伝八郎が、無役の辛い日々の中で昔のことを思い、結果としてもっとも自分が輝いていた時の出来事を書き綴る中で、つい、自分をかっこよく描いたとするなら、それを責めるのは酷かもしれない。


 『仮名手本忠臣蔵』の初演は、多門伝八郎没後、二十五年後の寛延元年(1748)年。
 刃傷事件があった元禄十四年から、四十七年後のことだった。


 このシリーズ、これにてお開き。

 長らくお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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by kogotokoubei | 2019-01-17 21:27 | 江戸関連 | Trackback | Comments(0)

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